盛大だと見ていい。例えば 〔A la lumie`re du Marxisme〕 (Sciences physico−mathematiques, sciences naturelles, sciences humaines)1935 其の他に見られる如き現象に注目。日本ではこの種の研究はまだ極めて乏しい。
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以上は社会機構によって自然科学が如何に制約されるかという、自然科学の被制約性[#「被制約性」に傍点]を概観したのであったが、云うまでもなくこの点は、自然科学が社会に於ける一イデオロギーである限りに於て、社会と自然科学との間の根本的な関係を示すものであった。社会に於ける一イデオロギーとしての[#「としての」に傍点]自然科学が、第一次的に云って(尤も自然科学に限らず一般に科学乃至イデオロギーがそうなのだが)、社会から制約を受けることを常にその根本条件とするのは、当然だ。
だが、今ここで、科学、ここでは自然科学が、単に社会的な一存在物であるだけではなく、元来夫が実在の反映、ここでは自然の模写、であったという根本的な約束を思い出さねばならぬ理由がある。自然科学の社会的規定、即ち之を一イデオロギーとして見る限り自然科学の社会による被制約性は、偶々この自然の模写に於ける科学的認識構成[#「認識構成」に傍点]の一条件にしか過ぎなかった。で今この点を考慮に入れれば、自然科学は(一般に科学がそうだが)その社会的被制約性にも拘らず、なお依然として社会からの干渉を抜きにして、自然と直接取り引きしている筈であって、この取り引きに専心することによって、自然科学はそれ自身の内部的な必然性からして、即ち外部社会からの強制と独立に、歴史的発達を遂げたのだ、という一側面が残っているわけである。前には、自然科学の発達が技術(この言葉の意味は前に注意した)乃至経済・政治・他領域のイデオロギー・によって制約されたものだと云ったが、ここでは自然科学が、夫自身の論理によって、歴史的発展を遂げるものと解釈されねばならぬ。ここに自然科学の所謂自律性[#「自律性」に傍点]なるものが存するのである。
処がこの場合、自然科学は実は単に自律的であることだけに止まらない。更に、やがて夫は他領域のイデオロギーや政治的・経済的・技術的・な領域やに向って、却って制約者[#「制約者」に傍点]としての機能を振い得る立場に立つことになるのである。――現に自然科学は夫自身の伝統[#「伝統」に傍点]を追うて発達する。そしてこの科学の諸成果は、逆に社会科学や哲学や一般文化や、更に技術や経済や政治問題に向ってまで口を利くのが事実である。――例えば進化論が社会理論乃至哲学へ与えた影響、又一般に自然科学の実証的研究態度とその成果とが他の諸科学や文化全般に(文学にさえ――自然主義文学)加えた制約、自然科学の研究による技術学乃至技術の進歩、従って又経済的乃至政治的条件への影響、其の他の多くの著しい諸現象は、ここに成り立つわけであった。
だが併し、それにも拘らずこの諸現象は、之を再び、自然科学が社会的一存在としてもつ性質から見て評価しようとすれば、決して社会と自然科学との関係の第一次的なものを云い表わしてはいなかったのである。夫は、社会と自然科学との間の、極めて顕著であるにも拘らず依然として第二次的にすぎぬ処の、導出された関係でしかないのである。自然科学が、一つの社会的存在としては、一個のイデオロギー・上部構造である所以が之であった。
自然科学はその理論内容自身の論理の必然に従って、歴史的発達をする。それは決して嘘ではない。――では自然科学的理論のかかる論理的展開(夫は自然科学にとって内部的[#「内部的」に傍点]な規定と見做されている)と、社会から来る例の外部的[#「外部的」に傍点]諸規定とは、どう関係するか。恰もここに、自然科学(一般に科学がそうなのだが)のもつ社会性・イデオロギー性の、根本的な問題が横たわる。と云うのはイデオロギー性とは、科学の社会性[#「社会性」に傍点]とその論理性[#「論理性」に傍点]とを噛み合わせた処の概念だったからなのである*。
それはこうだ。
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* イデオロギーは決して単なる社会学的範疇ではない、同時に論理学的範疇なのである。この点に就いては拙著[#「拙著」は底本では「拙者」]『イデオロギーの論理学』〔本全集第二巻所収〕を一貫して説明を試みた。なお「諸科学のイデオロギー論」(拙著[#「拙著」は底本では「拙者」]『イデオロギー概論』〔同上〕の内)を見よ。
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一般に科学に於てそうであるが、自然科学に於ても亦、科学の論理性が一等露骨に表面に現われるのは、その範疇と範疇組織とに於てである。研究手段から研究方法・叙述方法を通じて、実験的操作や統計的操作の運用に際してさえ、この方法としての論理が貫いているのだったが(前に夫を見た)、その集中的な表現がこのカテゴリーに於て現われるのである。自然科学の各領域は夫々方法的・論理的・な意味を有った諸根本概念(範疇)を持っている。物質・空間・時間・運動・力・場・生命・機能・法則・因果性・其の他がそうだ。こうしたものが自然界の現実の事物を指さしていることは云う迄もないが、それにも拘らずそれ自身は夫々一つの根本概念[#「概念」に傍点]以外の何物でもない。だからこの各々の概念が一つの概念としてもつ意味に就いては、常に歴史的な変遷が可能でなくてはならぬ。従って又一般の文化・哲学・他の諸科学・等々で用いられる根本概念との連関に於てしか、之は一定の意味を得ることが出来ない。こうした次第で、この根本概念(=範疇)こそが、実在性と社会性とを表わす二重性の所有者なのだ。このものが本来もつ論理的機能が、自然科学の(一般に科学の)論理性と社会性とを噛み合わせ又媒介する。
因果必然性の例を取って見よう。同じ因果必然性という言葉でも、夫を用いる範疇組織が異るに従って、その内容が全く別になる。機械論的(即ち又形而上学的・形式論理的)範疇組織による夫は、偶然性乃至可能性の絶対的な排除を意味する。そうした機械的な決定論或いは宿命論のための用語となる。之に反して弁証法的論理による因果必然性とは、寧ろこうした偶然性乃至可能性を一貫することによってしか実現しない処の、必然性のことだった。この例でも判るように、範疇組織のこの対立、形式論理と弁証法、機械論と弁証法との対立は、之を哲学的に換算すれば、結局観念論と唯物論との、思想上の[#「思想上の」に傍点]、イデオロギー上の[#「イデオロギー上の」に傍点]、対立に他ならない。形式論理や機械論は形而上学と呼ばれるが、夫は観念論の最も一般的な規定の一つであるし、弁証法は唯物論に帰着しなければならないのが哲学史の教える処だ(ヘーゲルからマルクスへ)。そして更に、思想上の、イデオロギー上の、この対立は、直ちにブルジョアとプロレタリアとの社会階級的[#「社会階級的」に傍点]対立に帰属させられていることを見るなら、科学の実在模写の論理や認識構成の方法に於ける論理が、如何に社会の階級対立に照応していたか、ということが判る筈だ。
すでに生産関係の階級的対立に包摂されることによって、技術乃至技術学を初めとして一切の社会規定が階級的対立に準拠する所以を見た。こうしたものが自然科学を制約するのであったから、社会による自然科学の例の被制約性は、実はその階級性[#「階級性」に傍点]と呼ばれるべきものだったが、処がそれが今ここに、その論理的[#「論理的」に傍点]な対応物・等価物を見出したわけである。――自然科学の対実在関係に於ける、又その一見自律的な独自の歴史的発展[#「歴史的発展」に傍点]に於ける、論理(真偽関係)は、社会関係(階級的対立)となって表わされる、という結論である。
以上は問題をわざと自然科学に限定して来たのであるが、殆んど全く同じ関係は、社会科学に就ても見出される。尤も社会科学が有つイデオロギー性・社会性、即ちその階級性乃至党派性は、自然科学の夫に比して、比較にならぬ程顕著であり、又その意義も重大であるが、このことは何もこの階級性乃至党派性なるものが社会科学(又哲学)にだけ特別なものだということを意味するのではない*。仮にブルジョア社会科学というものがあっても、ブルジョア自然科学などというものはありようがない、とそう吐き出す様に云う自然科学者は甚だ多いが、そう云っては済せない理由を私は先に述べた。之に反して、ブルジョア社会科学などというものがどこにあるか、と嘯く社会科学者があるとしたら、彼は恐らく現下の事情に於ては沢山の証明の責を負わねばならなくなるだろう。確かにこれだけの差が、自然科学と社会科学との間に横たわっている。
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* 党派性[#「党派性」に傍点]は本来階級性[#「階級性」に傍点]の特殊な場合を意味すべき筈である。だが実際には二つはやや場合の違った側面を云い表わす慣例になっている。階級性は主として科学乃至理論の社会的[#「社会的」に傍点]規定を指す。之は階級主観に基く何らかの主観的[#「主観的」に傍点]性質を云い表わすと一応考えられている。党派性は之に反して、科学乃至理論の、理論としての首尾一貫性、その非妥協性と潔癖と云ったような客観性[#「客観性」に傍点]・論理的[#「論理的」に傍点]規定を示すものと一応考えられている。――処が吾々によれば、この社会的規定と論理的規定とは内部的に噛み合ったものだったのだから、こうした区別は、今云った限りでは単に一応のものでしかない。ただ大切な区別があるとしたら、夫は党派性の方が階級性に較べて遙かに多く政治的活動を示唆する言葉だという点だろう。
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社会科学は生産関係の内部に関して、重大な利害の関心を有つ処の科学である。この利害がこの科学の出発点を形成すると共に目標を与えるものだとさえいうことが出来る。だがこの事情は、普通ブルジョア社会科学者や平板な常識が想像するように、社会科学の科学としての客観性を否定することを意味するのではない。現実の経済機構が人間の利害関係の組織であることは一つの事実である。そしてこの利害関係を科学的に分析するのが社会科学の第一段階であるということも一つの事実だ。こうした利害関係なるものがいつも科学の客観性と相容れないものでなければならぬと決めてかかることは、一つの先入見でしかない。利害が客観的に分析されることによって、利害でなくなるということは、理解出来ないことだ。問題はただ、主観的[#「主観的」に傍点]な勝手な願望や希望によって利害の客観的な認識が妨害される時に限って起きるのである。利害の客観的な認識が、主観的な利害意識と一致する時、利害[#「利害」に傍点]はそのまま理論的真偽[#「真偽」に傍点]関係に合致するのである。社会科学の真理はこういう事情を伴っているのだ。
社会科学も亦、客観的な歴史的社会的存在の、客観性を持った反映なのだから、自然科学の場合と同じく、矢張り自分自身、独自な科学としての自律性を有っている。そこから社会科学の超イデオロギー性や客観的公正・中立性などが推定される。無論夫でいいのであって、公正でなく主観的で偏頗なものなどは、元来科学ではあり得ない。処がこの客観的で公正で中立で超イデオロギー的・超階級的であることが、実はそのまま階級的対立[#「対立」に傍点]を意味しているのである。と云うのは、対立した二つの科学的理論が、夫々同じく客観的で公正で中道を行くもので階級主観の利害などに従って利害関係の認識を歪めたりはしてはいない、積りでいるのである。――社会科学のこの階級性の故に、今日一般にプロレタリア的社会科学は、云うまでもなくブルジョア政治権力によって検閲[#「検閲」に傍点]や統制[#「統制」に傍点]の外部的な(之こそ外部的な)露骨な干渉を受けねばならない*。このような露骨
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