歴史的本質(そして之が自然科学の一科学としての存在の本質を告げているのだが)を決定される例は、エジプト・ギリシア以来、古来無限である。なぜなら殆んど凡てがそういう場合に帰着するからだ。だが著しい例としては工業技術とニュートンの物理学乃至微積分学との関係(その説明については前を見よ)や農業技術とC・ダーウィンの進化理論との関係を挙げることが出来る。ダーウィンの進化理論はイングランドに於ける園芸技術・畜産技術の発達の結果であるとさえ云ってもいい。ペー・ヴァレスカルンは云っている、「ダーウィンにとってはイギリスは農業用動植物の変異および淘汰の研究に関する古典的な国であった。イギリス工業の発達と共に、資本主義は農業においても鞏固化された。粗笨な経営は漸次集約的形態に代えられた。改良された耕作方法、農業へ機械の採用を宣伝し、農業用家畜の合理的な飼養を宣伝するために一群の団体が創立された。特に家畜の飼養に関しては大きな事業がなされた。これらすべてが豊富な実際上の材料を提供した」(「ダーウィン主義とマルクス主義」――前出の中)。ダーウィンの淘汰理論はイギリスに於ける家鳩の無数の変種を材料としている。之は云うまでもなく畜産技術上の成果である。
技術学[#「技術学」に傍点]的与件[#「与件」に傍点]が自然科学を本質的に規定した例としては、ガリレイによる望遠鏡の改良と天文学、顕微鏡の発明と細胞の発見など、又一般に精密機械の作製能力と高温・高圧・高電圧其の他の可能とによる実験の異常な発達、及び夫による理論の高度の展開。――今日の一見最も「純粋科学」的に見えて非技術的に見える物理学的諸根本理論(相対性原則・量子論・原子物理学・其の他)も、実験用具と実験装置との技術的高水準を与件として初めて、科学上の根拠を有つことが出来た。
技術学[#「技術学」に傍点]的要求[#「要求」に傍点]が自然科学的研究を動機づけ促進させることの例は枚挙に遑ない。例えば殆んど一切の医学生物学的研究(バクテリオロギーの如き)は医学技術(技術学)の所産であると云っていい。軍需的技術学からの要求が冶金・応用化学・食糧科学・農芸化学其の他に関する物理学的化学的理論を急速に発達させつつあることは、今日誰知らぬ者もない(次を見よ)。
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生産力のもつ技術性が自然科学を直接に制約する点を今挙げたが、之に次ぐものは生産関係[#「生産関係」に傍点]による自然科学の制約である。生産力の技術性(特にその労働手段の体系)の内に一部分は数えることの出来るだろう交通関係[#「交通関係」に傍点]が、ここにまず第一の規定者となって現われる。ダーウィンのビーグル号による航海はすでに有名である。船舶・航空機・其の他の交通手段の発達による新しい科学上の探索は、従来到底近づき得なかった研究上の材料を提供する(極地・高層上空・奥地・其の他の探険跋渉などによって)。交通手段による交通関係は、自然科学にとっては夫自身実験[#「実験」に傍点]としての意義さえ持っているのである。
戦争[#「戦争」に傍点]は(之は今日では資本主義の諸矛盾の一時的な強力的な解決法として大規模に愛用されるのであるが、その点は今仮に抜きにして)、一方に於て自然科学(但し無論自然科学に限らず一般に人類文化がそうであるが)のための経済的・社会的・人的条件を根本的に破壊するにも拘らず、特に自然科学に就いては、他の方面に於ては却って之を促進する最も有力な要因の一つになっている。このことは、注目されねばならぬ。戦争準備は自然科学に技術学上の膨大な切迫した要求を課し、戦争の実行は自然科学の一種の実験としてさえ、稀に見る大規模な又特有な性質を有っている。無論こうした要求と与件とによる自然科学の発達は、科学の健全な一般的[#「一般的」に傍点]発達を根本的に犠牲にして初めて得られる「発達」なのだから、つまりはそれだけ自然科学の不具的発達(?)であり、現に之によって、社会の大衆の日常生活にとって切実な技術学上の要求は、殆んど完全に蹂躙されて了う。にも拘らず之によって、自然科学が局部的にヒステリカルにでも「発達」するという事実は認めなくてはならぬ*。
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* こう云う点を考慮に入れて云うならば、フランスの技術学的基礎を置いたものは軍需技術学を獲得すべくイギリスの技術を移植した砲兵将校ナポレオンだと云うことが出来る。ここからフランスに於ける(否世界に於ける)数学・力学・物理学の目ざましい発達が起こった。――明治初年の日本に於ける西洋式数学者や物理学者の多くは、海軍軍人だったと云われている。
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だが今日社会の生産関係は、世界の六分の五の面積に於ては、云うまでもなく資本制組織であり、或いは之に集約された限りの前資本主義的諸生産様式のものである。資本制の経済機構[#「資本制の経済機構」に傍点](政治機構其の他は後に見る)がそこで、自然科学にどういう原理的な制約を与えているかを見ねばならぬ。――処が実は、すでに見た生産力の技術性も、それに基く技術学的与件や要求も(交通関係も戦争事情其の他も)、どれも現実的にはこの資本主義的生産機構か、それでなければ、之に対立する社会主義的生産機構かに包摂されて初めて、自然科学に対して一定の規定機能を振うのであった。従って生産力の技術性や技術学それ自身が(交通関係や戦争事情も之に従って)、この生産機構の対立に相応して、根本的な対立を有っていたのである。資本制下の技術(普通そう呼ばれているが正確には他の呼び方が必要だった)と社会主義機構下の夫とでは、その社会的存在事情が非常に異ったものとして見出される。夫だけではなく、技術の発達という観点から云って、根本的に相反した条件におかれていることさえが発見されるのである。
資本制下に於ては特定の資本主義的要求と与件とに従って(例えば軍需工業の好況などによって)、技術が局部的に他部面を犠牲にして不具的な発達をなす所以を先に述べた。だが、そういう一種の例外にぞくする部面は抜きにして考えると、資本主義下の技術は、資本主義それ自身の発達と共に発達を来したものであるにも拘らず、資本主義自身の発達が自分自身の矛盾の尖鋭化を意味するようになって来ると、その発達が自然に又意識的に、抑制されざるを得なくなって来る。発明・発見の成果は故意に放擲されたり(例えば特許権を独占することによって特許使用を全社会に向って禁止する大産業資本を見よ)、技術そのものの制限さえが提案されたりする(例えば機械の代りに人力を用いて失業救済をしようとする)。技術という観念そのものが不吉なものに思われ始める(技術文明の罪禍!)。技術学的与件と要求とは、だからこの場合著しく制限されざるを得ない。
それだけではない。利潤追求を終局の目的とする資本主義機構に於ては、技術の発達なるものは実は生産技術の発達のことではなくて、結局は利潤追求の技術[#「利潤追求の技術」に傍点]を高度に合理化すことでしかない。技術学的研究のインスティチュートは、現に多くの場合利潤産出の物的機関としての工場の一部にぞくしている。生産力の技術学的促進と見えるものは、資本制下に於ては、利潤追求機構の促進のための生産技術的努力でしかない。例えば改良された蚕種は、蚕の生命の安全率を犠牲にすることを免れないが、之は養蚕家(主として農民)にとっては極度に不利で、之に反し製糸業資本家にとっては極度に有利な「改良」の意味なのである。なぜなら製糸業者は、少数の合格した繭に就いてだけ貫当りの相場で養蚕家へ支払えばよいからである。――資本主義社会に於ては、もはや今日、技術乃至技術学の意味に於ける「発達」は不可能になっていると云っていい。だから、こうした状態に於ける生産力の技術性や技術学的与件乃至要求やによって制約される筈だった自然科学は、つまりそれだけ直接に資本主義からマイナスの方向に向って規定されざるを得ないわけなのである。
社会主義的生産機構下に於て、技術・技術学・自然科学(医学・社会衛生・其の他の実証科学をも含めて)が、之と如何に異った条件の下に置かれているかは、世界が斉しく認めざるを得ない処である。ソヴェート・ロシアに於ける産業と科学の溌剌たる発達の事実は、全くこの社会主義的生産関係を、唯一の原因としているものに他ならぬ*。
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* この点に就いては、恐らく外国人の書いたものの方が、資本主義的信用を有つだろう。クラウサー『ソヴエト・ロシヤの科学』(時国訳)、同じく『ソヴェト・ロシアに於ける産業と教育』(辰巳訳)、J. J. Trillat, Organization et principe de l'Enseignementen U. R. S. S.(Les relations entre la Science et l'Industrie)1933 参照。――なおソヴェートの技術と技術学乃至科学との関係については、『ソヴェート科学の達成』(岡・大竹・監訳)が最もよく説明している。
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次に政治権力[#「政治権力」に傍点]が自然科学に及ぼす制約であるが、例えば日本などに於ける自然科学(即ち国家にとって須要な学術)の保護奨励の制度施設は、他の資本主義国に較べて、大体名目上の程度に止まっているように見える。資本家の「純粋」自然科学に対する援助も、日本の気短かな資本の利益にとってあまりに回り道に見えるので、大して捗々しくない*。そして軍義的工作に吸収されて了う国家財政は、自然科学の自然科学としての発達に実質的な援助を与える程の余裕をもはや残さないようにさえ見える。――だがこの現象は決して日本にだけ特有な偶然な事情ではない。之は世界の一切の資本主義国が、多かれ少なかれ採用しなければならぬ共通のコースに他ならない。ただ日本の場合、それが極めて特徴的であるに過ぎないのである(ナチ・ドイツのユダヤ人排撃による多数の有能な自然科学者の追放などは、論外としてだが)。――処で一方、レーニン等によれば、ソヴェート権力[#「権力」に傍点]は全国電化[#「電化」に傍点]と結合して初めて現実的な意味を得るのだった。ここでは政権と自然科学とは別なものではないようにさえ見える。
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* 岩崎による理化学研究所、塩見による塩見研究所などが、その少数の例に過ぎない。そして之とても、少なくとも前者は、欧州大戦当時に於ける軍国産業奨励をその設立の動機にしていることは注目すべきだ。
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次に、社会の観念層=イデオロギー[#「イデオロギー」に傍点]と自然科学との関係となる。自然科学はそれ自身一つのイデオロギーであるから、社会に於けるイデオロギーの他の分野と極めて密接な関係を有つことは改めて説明する迄もない。社会に於ける一般文化・思想・の動向は直ちに何等かの形でここに反映する。ルネサンス期に於ける文芸復興とヒューマニズムは、自然の自由な囚われない探究となって、自然科学の精神を形成したことは今更云うまでもない。マルクス主義は唯物弁証法として、今日の自然科学研究に対して新しい動向を与えつつある*。哲学上のマッハ主義は今日でも多くの「ブルジョア自然科学者」の科学精神を支配している。この種の諸思想がどういう機構を通じて自然科学を制約しているかに就いては次に述べるが、少なくともこうした制約のあるという現象は、今之を見遁すことが出来ない。――社会科学上の理論が自然科学を制約した例としては、マルサスの人口理論(資本主義がそれ自身に自然的な矛盾を持つことを初めて見抜いた正統派経済理論)がダーウィンの自然淘汰理論に示唆を与えたことが、挙げられるのを常とする。
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* ソヴェート・ロシアを除いて、マルクス主義による自然科学的研究は、初めはドイツに於て最近ではフランスに於て、相当
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