らない。
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五 科学と社会
科学が実在[#「実在」に傍点]を模写することは、之を具体的な実質的な反面から云えば、科学が認識を構成[#「構成」に傍点]することだったが、この科学的認識構成の第一の内容は、科学の方法であった。そしてその第二の内容が科学の社会的規定[#「社会的規定」に傍点]、社会に於ける科学の存在条件[#「社会に於ける科学の存在条件」に傍点]である。或いは之を科学の歴史的規定ともそのイデオロギー性[#「イデオロギー性」に傍点]とも呼んでいい理由がある。と云うのは科学は、社会に於ける歴史的一存在物である限りに於て、他ならぬ一つの乃至一定種類のイデオロギーに他ならないからだ。
科学の方法は、その弁証法的な研究方法と叙述方法とに於て見られたように、それ自身論理にぞくする。処が之に反して、科学の社会的[#「社会的」に傍点]規定は、科学のこの論理的[#「論理的」に傍点]規定と対立していると、そう少なくとも普通は考えられているのである。だがよく考えて見ると、科学のこの社会的規定が科学的認識[#「認識」に傍点]構成の条件であった以上、科学のこの社会的規定と雖もその論理的規定と独立であってはならない筈だ。科学のイデオロギー性とは実は、科学的認識の社会的条件が、如何に科学的認識の論理的構成に反映するかということを、物語る言葉でなくてはならぬ。――では、科学のこの社会的規定・イデオロギー性は、どういう姿で現われるか。
人間の歴史的社会は、後に説明するように、史的唯物論に従えば、その現実的な根柢を生産力[#「生産力」に傍点]に持っている。生産力は労働力と労働手段と労働対象とからなっているが、一般にイデオロギーは、まず第一にこの生産力によって最も基柢的な限定を受ける*。人間の物質的生産活動がその人間の物の考え方を規定するということは、見易い道理であるが、それが特に一定社会の一定時代の人間大衆についてであれば、この点益々顕著になる。だが今、生産力が特にそれの持つ技術的[#「技術的」に傍点]な側面を通して、イデオロギー一般を規定するものだという点を、注目しなければならない。
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* イデオロギーという言葉の意味に就いては、私は至る処で説明してきた(前を見よ)。それは第一に社会に於ける上部構造[#「上部構造」に傍点]としての観念界を意味する。而も之は第二に、単に個人々々の観念・意識の世界だけに止まらず、却って社会に於ける一定の人間群の意識(社会意識[#「社会意識」に傍点])を指す。その結果第三に、個人の意識も亦この云わば社会自身が持つ一定形態の意識の内に包摂されることが出来る(之が意識形態[#「意識形態」に傍点]としてのイデオロギーとなる)。第四にこのようなイデオロギーは社会階級の現実的な利害に対応する階級性[#「階級性」に傍点]をもつ。だがそれであるが故に却って第五に、対立した二つ以上のイデオロギーの内、一方は真理で他方は虚偽だということになって、一般にイデオロギーは真理意識[#「真理意識」に傍点]、乃至虚偽意識[#「虚偽意識」に傍点]を意味するようになる。――以上の諸規定を結合すると、政治意識としての、又は思想的傾向[#「思想的傾向」に傍点]としての、イデオロギーの意味が判然となる(イデオロギーという言葉がド・トラシの観念学から出て、どういう変遷を経て今日の意味のものになったかに就いては、今は省こう)。
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技術的[#「技術的」に傍点]な規定(併しまだ所謂技術[#「技術」に傍点]そのものではない)は生産力の最も重大な規定の一つである。尤も技術性が生産力の唯一の規定だというのではない、仮に技術性で以て生産力の規定の凡てを蔽うて了うならば、社会の現実的根柢は技術性(普通之をルーズに技術と呼んでいる)に帰着することになって了うだろう。そうするとそこから、各種の技術史観や技術家至上主義などの技術主義が結果することになる。この結果のナンセンスであることは、一方では、その場合用いられる技術(?)という概念が不確実で無統制であるという事実に於て、他方ではそうした概念を適用したこの結論が実際問題の解決に当って示す奇説や見当違いに於て、之を検証することが出来る*。生産力の規定は技術性にだけあるのではない、抑々この技術性が基かねばならぬと考えられる処の規定である生産性[#「生産性」に傍点]こそ、その第一の規定でなければならなかったろう。だから技術性[#「技術性」に傍点]は生産力の一規定に過ぎないと云わねばならぬ。処がこの一規定に過ぎない技術性が、イデオロギー(科学はその内に含まれる)の問題から云えば、一等大切なのである。
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* シュペングラーの技術主義的な歴史的予言、西欧(アメリカも同じだが)の文明は技術的であるが故に今行きづまりと没落とに瀕している、技術を超越した東洋思想こそ歴史の新しい段階へ導くものだ、という。アメリカのテクノクラシー(日本では最初の一カ月は極度に問題にされ次の一カ月には全く忘れられた)は、生産技術家の社会管理を提唱する。――こうした歴史理論や社会政策論が、圧倒的に盛りあふれる今日の現実問題を、てんでマスター出来ないことは、今更説明を俟つまでもない。
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生産力の技術性は処で、生産力の例の三つの内容に即して見出される。第一は労働手段に就いてである。普通、「技術」とは労働手段の体系のことだと考えられている。労働手段と云えば道具・機械・又工場施設・交通施設其の他などを、指すのであるが、それの体系というものが、もし仮に結局矢張り、之等労働手段自身のことを意味するにすぎぬなら、機械が技術でないと同じに、労働手段の体系が技術だという概念の決め方は見当違いでなくてはならぬ。併し又、もしこの体系という言葉が、個々の労働手段の加算以上の何かのプラスを意味するのなら(無論そうなければいけないだろうが)、この何等かのプラスなるものが何かという疑問が残るのである。そして単に、技術が労働手段の体系だと云っただけではこの疑問を解くことは出来ない。この何等かのプラス、「体系」という言葉が云い現わすXは何等か技術的なもの[#「技術的なもの」に傍点](単なる道具や機械ではなくて之に体系的に結びついた処の)だとでも云う他はあるまい。だがこれでは、「労働手段の体系」というのは、技術を説明するものではなくて、却って逆に、「技術的なもの」によって初めて説明され得るような観念でしかない、ということになる。
思うに、労働手段の体系は、所謂技術そのものではなくて、単に技術的なるもの[#「技術的なるもの」に傍点]、生産力にぞくする労働手段に於ける例の技術性[#「技術性」に傍点]、の表現でなければならないだろう。生産力の一定の技術性(技術自身ではなく)こそ、「労働手段の体系」が云い表わす現物なのである。では所謂技術・技術そのもの、とは何かというと、之は単に生産力や或いは又それの直接の結果であり形式である処の生産関係などの領域だけに止まらず、広く社会的規模[#「社会的規模」に傍点]に於て理解されている一つの常識概念であって、云わば社会の一般的な(独り労働手段に限らず又労働力に限らず又更に単に生産力に限らない処の)技術的水準[#「技術的水準」に傍点]を云い現わす言葉だろう。この社会の技術水準を決定する要因と標識との第一が、この労働手段体系であったのだと云っていいだろう。
で生産力の技術的規定(技術性)が、労働手段に就いては、所謂「労働手段の体系」として見出される。次に労働力に就いては、之が労働技能[#「技能」に傍点]となって現われるのである。技能とは人間的労働力がもつ一つの資格である。云うまでもなく之は、労働手段乃至その体系に対応して初めて成り立つものであり、従って第一次的に夫によって決定されるのだが、併し二次的には逆に労働手段のもつべき諸条件をば決定する標準となるものである。機械は、機械操作に於ける労働者の労働力技能を客観的に発達させ、又一定の客観的な技能水準を労働者に要求する。だが又逆に、例えばコンベーヤー・システムは、与えられた一定技能水準を条件とするのでなければ、構成出来ない。労働工率乃至生産工率(エフィシェンシー)という言葉は、恰もこの技術性の二つの規定を結びつけているだろう(尤も企業合理化に於ける所謂能率[#「能率」に傍点]としてのエフィシェンシーは、資本制による利潤追求の機構が之に干渉しているのであるが)。――だが、技能は事実、社会に於ける技術水準[#「技術水準」に傍点]の、主体的な個人的な反映に他ならない。だから夫は結局、労働手段体系[#「手段体系」に傍点]の、主観的な人的な反映だったのである*。
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* 技術の概念に関する議論に就いては、拙稿「インテリゲンチャと技術論」(『日本イデオロギー論』〔前出〕の内)及び岡邦雄『新エンサイクロペディスト』の内を見よ。――なお相川春喜『技術論』(唯物論全書――未完の部)がこの問題に触れるだろうと考える。
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労働対象(自然的物質)に就いての生産力の技術性も亦、一考には値いするだろう。例えば鉱山の発見は労働手段体系と労働技能との発達を促進するし、逆に後の二者は、そうした土地の生産性を技術的に高めることによって、云わば之を技術的な[#「技術的な」に傍点]労働対象として見出すだろう。だがこの場合、労働対象を技術的たらしめるものは、云うまでもなく労働手段体系(それに付随して労働技能)であって、この労働手段体系が、云わば労働対象にその技術性を付与するのだと云ってもいいのである。で労働対象に於ける技術性は単に二義的な意義のものに止まるだろう。特に今の場合のように、問題が技術とイデオロギーとの関係にある時、いよいよそうなのである。
さて右に述べたような生産力の技術性は、まず第一に自然科学[#「自然科学」に傍点]に対して極めて特有な関係を有っている。と云うのは、生産力の技術性から直接発生するものは技術的知識(技能[#「技能」に傍点]と知能[#「知能」に傍点])であり*、之はやがて技術学的(農学的・工学的・工芸学的・又医学的)知識なのであるが、自然科学は恰もこの技術学的要求と条件とに従って、歴史的に発生し、促進され、その課題の統制を得る、というのが、根本的な事実だからである。今更云うまでもないことであるが、自然科学は何かそれ自身の学問のイデーとか理想とかを追うことによって、発生したり発達したりするのではない。そうした科学的理念や真理の愛こそが、却って自然科学的意識の発達(ルネサンス以来特に著しい処の)の結果であって、この意識を産んだものは技術学的条件と要求とによって社会的に展開の必然性を受け取った限りの自然科学だったのである。自然科学の発達の結果が、技術学のより以上の発達の条件となり、従って生産力の技術性を発達させ、従って又社会に於ける生産技術水準を高める原因になるということは、勿論だが、自然科学がそういう程度にまで発達し得たということ自身が(今直接関係のない他の因子を除いて考えれば)、技術学的な条件と要求とに基いてのことであり、従って又生産力自身の技術的な条件と要求とに基いてのことである**。つまりその意味に於ける社会の技術的水準に結局は原因しているのであった。
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* 知能(インテリジェンス)はインテリゲンチャ問題に就いての根本的な看点を提供する。インテリゲンチャが何等かの社会階級問題乃至労働運動の問題となり得るためにも、まずこの看点が掴まれなくてはならぬ。そうでなければインテリゲンチャの特有[#「特有」に傍点]な社会的役割は没却され、ただの中間階級の不安や動揺という一般社会現象に還元されて了うことになるからだ。
** 自然科学が生産力の技術的与件と要求とによってその
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