フは、決して統計的操作の結果なのではなくて、却って単にプロバビリティー現象であるが故に統計的操作を用いる他はないというのに他ならない。
 で統計的操作は、云うまでもなく自然科学的方法にとって欠くべからざる一手段ではあるが、社会科学の場合に較べて、その研究様式の一部分として機能する程度が、原則的に低いということを認めざるを得ないようである。――一体社会科学に於ても、統計的操作は決してそのまま研究様式=研究方法の資格に登ることは出来ない。夫には単に研究材料の収集の機能しかなかった。だから普通、統計的研究法[#「統計的研究法」に傍点]乃至統計的方法[#「統計的方法」に傍点]と呼ばれるものは、吾々が見て来た区別に従えば、統計的操作[#「操作」に傍点]=研究手段[#「手段」に傍点]と呼ばれるべきものを意味する場合が多い*。
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* 例えば尊重すべき書物である小倉金之助『統計的研究法』、又蜷川虎三『統計学研究』は統計学を研究方法[#「研究方法」に傍点]それ自身にぞくする一社会科学とする。即ち統計学は統計的研究方法をここに想定しているのである。有沢広巳『統計学』(改造社版『経済学全集』)によれば、統計学は社会科学の方法である。
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 最後に、統計的研究手段は、次の実験的研究手段と共に、決して科学の叙述様式[#「叙述様式」に傍点]となるものではない。往々にして之が統計的叙述[#「叙述」に傍点]様式と考えられがちなのは、統計的手段を直ちに統計的方法[#「方法」に傍点]と想定する処から発生する一つの誤解であって、統計なるもの自体が元来研究のための単なる材料に過ぎなかったにも拘らず、それのもつ数量的な表現に幻惑されて、之に方法としての不当な威厳を認めがちな事から来る結果なのである。統計的な数学があったからと云っても、その叙述様式が統計的だなどと考える事は、全く子供らしい事だ*。
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* 統計の数字がもつ魅力は、統計の階級的根本制約に就いての批判を蔽いかくして了う。統計的研究方法[#「研究方法」に傍点]なる概念のもつ一種の通俗的な信用は、この点に関係がなくはない。
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 実験的操作[#「実験的操作」に傍点]。之も亦統計的操作と同じく、科学研究のための材料の収集の一手段であり、そして又統計的操作と同じく観察[#「観察」に傍点]から始まる。だが観察が発達すれば観測[#「観測」に傍点]となり、やがて又測定[#「測定」に傍点]となり、そして最もプロパーな意味での所謂実験[#「実験」に傍点]となるのである。実験は、云うまでもなく自然科学的研究方法=研究様式の最も著しい必要欠くことの出来ない一内容となるものであるが、吾々はすでに、実験なるものが科学一般の科学性[#「科学性」に傍点]を保証する機能あるものであることを述べた。蓋し一切の科学的認識は経験から始まるのであったが、経験(それが観察・観測・測定などへ発展するのである)一般がすでに実験という根本性質を持っているのであった。なぜなら経験は元来能動的な人間態度を意味したのであって、それによって人間は自己と環境とを確かめながら、過去の経験の蓄積を利用しつつ将来に向って生活を開拓して行くのだった。そういう風に経験を検証[#「検証」に傍点]し蓄積[#「蓄積」に傍点]し予見[#「予見」に傍点]して行くことこそ、実験の一般的な性質だったのである。
 従って一切の科学も亦実験的な本質を持っている。だがそのことはすぐ様、一切の科学が同様な仕方に於て実験という研究手段=操作を用いている、ということにはならぬ。もしそうでなかったら、例えば実験心理学とか実験動物学とか等々という言葉ほど無意味なものはなくなって了うだろう。実験的でない科学はなかったのだからだ。思うにこの実験心理学その他は、実験という研究手段[#「手段」に傍点]を用いる限りの心理学その他を意味する。――但しそういうことは又、すぐ様、それが実験的方法[#「方法」に傍点]を用いるということにはならぬのだが。
 処で自然科学的方法に於ける実験的操作の役割が有つ重大さに就いては、もはや説明の余地はないだろう。問題は社会科学に於ける夫なのである。――普通社会科学に於ては実験という操作は全く不可能だと考えられている。だがこの見解には少くとも異論を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]むことが出来るのである。現にF・シミアンなどは、実験的操作の意味を極めて広く理解している。単に事物や観念を分離・蒸溜・抽象化する機能を実験だと考え、自然科学ではこの操作が物質的であるのに、社会科学では夫が単に観念的であるという相違しかないのだ、と主張する*。
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* F. Simiand, 〔De l'Expe'rimentation en science e'conomique positive〕(Revue Philosophique, 1931)――なお拙著『技術の哲学』〔前出〕中の「技術と実験」の項参照。
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 吾々は又吾々で、実験の概念を根柢的に広範に理解せねばならぬ理由があった。夫は人間的経験の本質だったからである。して見れば之を、単に自然科学に於てしか見当らないような実験的操作に於ける、実際に限る理由はない筈である。自然科学に於ける実験的操作の特色と普通考えられる条件は、操作から独立[#「操作から独立」に傍点]な客観界に就いて、その一定の必要な理想的状態[#「理想的状態」に傍点]を、人工的に比較的随時[#「人工的に比較的随時」に傍点]に、齎し得るということだ。処が併しこの条件は精密に又厳密に考えると、自然科学自身に於てさえ、殆んど全く不可能な内容のものだということを注意しなければならぬ。まず第一に操作から完全に独立な客観界に就いての物理学的実験は、例の不確定性原理によって、不可能だという事が原則的に証明された。操作の用具である光の量子は、実験の結果を示されるべき自由エレクトロンの速度と運動量とを予め変化せしめて了うので、示されるものはエレクトロンの元の空間的定位ではなくて、操作によって変化された状態でしかない。この点社会科学に於て、研究活動の作用そのものがその研究対象たる社会にぞくすという関係と、程度の差こそあれ、本質的に別なものではない。
 それから一定の必要な理想状態と云っても、夫はその言葉が示す通り理想状態であって、現実に到達し得る状態と夫との間にはいつも或る距離が残されている。不必要有害な外部的影響から絶対的には免れ得ない点では、政府の米穀統制政策の試みの場合と、海底に於ける重力測定のための実験の場合とでは、矢張り程度の差こそあれ、その条件の困難に本質的な変りはない。実験が人工的に比較的随時に行なわれ得るということは、実験を大学の実験室での実験に限って考えるからで、特定の天体観測(之も実験でないという理由はあるまい)、例えば水星のペリヘリオンなどは、決して人工的に随時に行なわれはしない。それは戦争や革命よりもまだ稀だろうからだ。――顕微鏡や試験管を用いなければ実験ではないというなら、そして疑問を確かめるために試みる[#「試みる」に傍点]という目的意識や、今後の先例にしようとする目的意識がなければ実験でないというなら、戦争には偵察攻撃という社会的実験[#「社会的実験」に傍点]のための戦術もあるのである。
 でこうしたわけで、実験を自然科学に於ける実験的操作に限定せねばならぬ積極的な理由はないのである。無論こう云っても、社会科学に於ける実験的操作が、自然科学に於ける夫と全く同じだというのではない。ただ実験的操作の概念を普通よりももっと拡張することが、研究手段乃至方法の統一的な理解の上から云って、必要だというのである。一切の社会的歴史的(過去の又現在の)出来事は、階級・政党・政府・インスティチュート・又個人・等々の主体の実践の結果だという資格から、一つの試み[#「試み」に傍点]である。そして又それは後々の同一性質の出来事の先例[#「先例」に傍点]となるのである。その限りこうした出来事は「実験」としての効果[#「効果」に傍点]を持っているのである。蓋し実験とは、実践[#「実践」に傍点]の最も要素的な形態に他ならず、やがて社会に於ける産業[#「産業」に傍点]・政治活動[#「政治活動」に傍点]にまで発展する要素だったからだ。――かくて、社会科学的方法に於ても亦、或る意味に於ける実験的操作が行なわれると見得るのでなくてはならぬ。
 だが、自然科学に於ける実験的操作も、社会科学に於ける夫も、決してそのまま夫々の科学の実験的方法[#「方法」に傍点]となるのではない。之等の手段は夫々の科学の統一的な研究様式によって定着されて初めて、この夫々の研究様式の一内容となり得るに過ぎない。

 科学に於ける研究手段が、自然科学と社会科学に於て如何に共通[#「共通」に傍点]であり、又如何にその上での差別[#「差別」に傍点]を含んでいるかを、吾々は見た。そして之は実は、夫々の科学の研究様式[#「研究様式」に傍点]の共通性とその上での差別とに基く他はあり得ない。如何なる研究手段を如何なる組み合わせで採用するかは、全く科学の研究様式の欲する処なのだから。最も積極的な研究手段であった統計的操作と実験的操作とは、科学の研究資料・認識材料の収集の機能につきている。処がマルクスの『資本論』によれば(前出の個所)、科学の研究様式は、材料を単に瑣末に至るまで習得し収集するだけではなく、更にその色々の発展形態を分析し、そして更にこの諸形態間の内部に横たわる連絡を嗅ぎ出すこと、でなければならない。と云うのは、科学の研究方法は法則[#「法則」に傍点]・公式[#「公式」に傍点]・原則[#「原則」に傍点]の導来となって現われなければならなかったということだ(前の法則の個処を見よ)。――研究手段の上に、研究様式が君臨する所以である。
 さて科学の研究様式[#「研究様式」に傍点]の分析はこうだとして、以上述べた操作と研究様式との結果を、一定の科学的な形態の下に叙述するのが叙述様式[#「叙述様式」に傍点]・叙述方法[#「叙述方法」に傍点]である。これについて云うべきことが沢山あるが、今は省略せざるを得ない。

 最後に注目すべきは(マルクスの方法がそうだったように)、その研究様式も叙述様式も、常に弁証法的論理[#「弁証法的論理」に傍点]によって貫かれる必要があることだ。一切の科学の方法の最後の意味は、論理[#「論理」に傍点]にあった筈だが、論理は弁証法的であることによって初めてその生きた具体性と活動性とを有つことが出来るからである。――処でこの方法としての弁証法的論理は、科学と実在との関係に就いて述べた処に従って、実は実在乃至対象そのものの根本性質に照応するものでしかなかった。それであればこそ、この方法による科学が、その真理性を受け取り確保することが出来るのだった。――科学の一般的方法[#「一般的方法」に傍点]は(唯物)弁証法である。
 以上が実在の模写に於ける科学的認識構成[#「認識構成」に傍点]の重な一半(科学の方法という)である。科学的認識構成の他の副次的な一半は(併し之とても理論的にも実際的にも右に劣らず重要なのだが)、科学の社会的歴史的根本制約[#「科学の社会的歴史的根本制約」に傍点]・そのイデオロギー性質[#「イデオロギー性質」に傍点]であった。
 実在[#「実在」に傍点](対象[#「対象」に傍点])――方法[#「方法」に傍点]――イデオロギー[#「イデオロギー」に傍点]、この三者の云わば相乗積は、科学の世界、科学のもつ科学的世界[#「科学的世界」に傍点]、である。実はそこまで行って科学の方法も、その目的を果すのである。――で、吾々は科学的世界を取り上げる前に、「科学と社会」との関係を、見なければな
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