ナある。
 この点云うまでもなく社会科学に於ても変らないばかりでなく、ここではこの操作の機能に就いて愈々明白な観念が得られるだろう。A・スミスの『富国論』やリカードの Principles of Political Economy and Taxation などに於ける分析操作、又哲学ではアリストテレスの主なる著書(『メタフュジカ』・『フュジカ』・『ニコマコス倫理学』・等)の考えの進め方の操作、などがそのいい例である。
 だがこの分析的操作は一つの歴史を持っている。というのは、この概念分析という手続き・手段が、之まで往々にして単なる形式論理のものだった場合が多い。処が分析が現実的であり、操作として完備するためには、こうした形式論理的[#「形式論理的」に傍点]な分析(単なる区別・対比・固定化)では不充分なのであって、いやでももっと具体的な分析にまで行かざるを得ない。この時、分析は弁証法的[#「弁証法的」に傍点]な分析操作の性質を帯びざるを得なくなるのである(本来弁証法は単にこうした操作[#「操作」に傍点]の名に限られるのではなく、実は科学的方法[#「方法」に傍点]そのものの名であり、或いは寧ろ実在[#「実在」に傍点]そのものの根本法則[#「根本法則」に傍点]であるのだが、今は夫が操作となって、断片化されて現われる場合を指す)。――で分析的操作が終局に於て弁証法的でなければならぬことは、凡ゆる場合に於ける要請であって、物質の概念に就いてもエーテルの概念に就いても、之を正当に把握して使用するためには、それをこの弁証法的分析にかけることを必要とする。自然科学の理論的整備に必要なのが之で、自然弁証法[#「自然弁証法」に傍点]の一つの契機をなすものが之だ。マルクスの『資本論』に於ける商品の分析は、社会科学に於けるその適切すぎる程適切な例であり、たといこれ程露骨な叙述様式を伴わなくても(操作=研究手段は研究様式と異り、まして叙述様式とは一応全く別だった)、実質に於てこの操作を用いたものは、極めて多い。マルクス主義的社会科学に於ける分析がいずれも之にぞくすることは云うまでもないし、そうでないものでも、いつか知らず知らずにこの段階の分析にまで押し進められている場合が少くない。哲学ではプラトンの『ソピステース』やヘーゲルの『エンチークロペディー』などがその典型である。
 だが操作・科学手段は一般に、研究様式にぞくする浮動した断片ではあるが、研究様式そのものではなかった。そして叙述様式でもない。ではこの二つの様式と、之とはどう関係するか。――もし今この分析的操作をそのまま科学の研究様式・研究手段として採用するならば、夫は概念分析だけによって事物関係を説明しようとすることであって、分析が形式論理的な場合には明らかにスコラ主義[#「スコラ主義」に傍点]となり、分析が弁証法的である場合には詭弁[#「詭弁」に傍点](ソフィステライ)の類となるだろう。だから、この研究手段が研究方法・研究様式として役立つためには、少くともこの操作以外の諸手段(数学的解析とか実験とか)を同時に用いなければならぬ、ということが判る(この点、他の夫々の研究手段・操作に就いても変りはない)。――それから、分析的操作は叙述様式に於て最も有効に用いられる処の手続きであることに就いては、多く考察を必要としないだろう。

 解析的操作[#「解析的操作」に傍点]。之は一般の文字と一般の分析操作との代りに、記号と数学的操作(計算・演算・其の他一切)とを用いる処の、数学解析の手段を指す*。その外貌の相違にも拘らず、之は前の分析的操作の一変形に過ぎない。――自然科学、特に所謂精密科学に於て、この操作が重大なことは、説明するまでもない。或る場合には物理学の根本原則さえが、この操作の制約を受けて初めてその形態を与えられる(例えばマクスウェル電磁方程式のシムメトリ形式から、相対性理論の手続き上の成立動機が生じた如き)。又逆に一定の物理学的原則は或る特定形態の解析的操作だけを選定する必要を生む(例えば量子力学によるマトリックス、波動力学による波動方程式など)。所謂精密科学にはぞくさない生物学に於ても、Biometrie や関数生物学、メンデリズムに於けるコンビネーションなど、この手段に訴える。実験心理学に於ける適用も亦言を俟たない。
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* ここに解析的と云ったのは、必ずしも数学的な Synthesis(代数や整数論や純粋幾何学など)と対立させる意味ではない。
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 社会科学に於ける解析的操作は、数理経済学や経済学に於ける感覚測定論に最もよく現われる*(数理経済学に就いては前を見よ)。それからマルクスが『資本論』第二巻に用いた有名な公式W―G―W(商品―貨幣―商品)の処理法は、代数学的記号とその操作の模範的なものにぞくするだろう。――スピノザのユークリッド的手続きによる『倫理学』は、強いて云えば哲学に於ける今の一例となるかも知れない。蓋しこの『倫理学』は、例の分析的手段と解析的手段との、移行の中間に横たわるからである**。
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* 経済学に関する感覚測定論に就いては、高垣虎次郎『経済理論の心理学的基礎』(改造社版『経済学全集』第五巻)参照。
** 次に見るように統計的手段の一部に数理統計[#「数理統計」に傍点]なるものがある。之は云うまでもなく数学手段にぞくする。でここからも知れる通り、諸研究手段の相互の間にも、直接の交錯がなくもないのである。
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 解析的手段は分析的手段の特別な形態だったが、それが特別な形態であるだけに、云うまでもなくその適用範囲は広くない。之を研究様式とするということは、数理経済学などの誇称を論外とすれば、だから初めから殆んど絶望で、そうした企ては多く極めて無内容に終っているから問題ではない。叙述様式としてさえ、この手段は著しく制限されている。だが強いてこの手段を叙述様式の下に用いようとすれば、大抵の場合夫が不可能ではないのである。従って叙述様式にこの手段を用いることが出来たということは、少しもその科学の科学性を高めるものでもなければ科学性を証拠だてるものでもない。まして、之だけによって(数学以外の)科学の叙述を与え得たと称するような場合がもしあるとすれば、夫は恐らくその科学の非科学性(抽象性・テーマの人工的局限・認識目的の喪失・等々として現われる)をさえ証明するだろう。

 統計的操作[#「統計的操作」に傍点]。前二者は併し、科学研究上に於ける消極的な操作でしかなかった。之に反して、積極的な手段を提供するのは統計的操作と次の実験的操作とである。と云うのは、この二つは科学研究に対して能動的に材料[#「材料」に傍点]を収集[#「収集」に傍点]する機能を有つからである*。
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* 統計と実験との対比に就いては、例えばマルク「統計学」(『科学研究法』――フランス学会編――の中)を参照。――なおこの『科学研究法』は人文関係の諸科学に就いての実証論的な立場からする代表的な省察が集められている。
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 統計的操作とは、個々の事象が直接経験出来ず、単に集団的にしか観察出来ない場合か、或いは個々の事象が経験しようと欲すれば経験出来るにも拘らず、個々の事象の観察からは得られないような材料を必要とする場合に、用いられる材料収集の手段である。――材料は云うまでもなく人間の現実の経験[#「経験」に傍点]から受け取られる。之が一切の科学の研究の端初であった。処が経験から材料を受け取ると云っても、決して簡単なことではない。材料の収集には経験の蓄積を必要とする。その経験の蓄積はどうやって行なわれるかというと、夫が第一に観察[#「観察」に傍点]なのである。材料の収集の手段はだから第一に観察だと云っていい。今この観察が単に集団的な現象に就いてしか事実上不可能であるような場合(例えば気体運動論に於て全分子の運動の総体の如き)か、或いは個々現象の観察では必要な観察が行なわれない場合(例えば失業人口の推定の如き)、必要なのがこの統計的操作である。――かくて統計的操作は第一に大量観察[#「大量観察」に傍点]だということが出来る。
 尤も同じく大量観察と云っても、右の例の二つの場合によってその意味を異にしている。例えば前の例での一定容積内の分子の諸運動は、初めから大量そのものとしてしか事実上与えられ得ない。之は言葉から云えば言葉通り大量観察ではあるのだが、併し所謂(社会科学などで用いられる意味での)「大量観察」とは性質を全く異にしている。真の大量観察は、事象の個々[#「個々」に傍点]の場合々々を、或る相当の回数乃至個数に至るまで、同時的に或いは時間的に、一つずつ反覆するに及んで、その平均分布を求め、そして初めて得られる処の観察を云うのである。
 この後の意味に於ける大量観察の結果得られた材料を、普通「統計」と呼ぶのであるが、統計的操作は次に第二に、この統計材料を統計解析[#「統計解析」に傍点]に掛ける。この統計材料が時間関係を含まない時(時系列[#「時系列」に傍点]をなさない時)は、統計解析は主に分布状態[#「分布状態」に傍点]を与える。即ち大量的に多数な同一種の諸事象は、適当に区切られた区画にあてはめられ、夫々の区画に夫々の散布度が発見されて、一定の高低の段階を有った分布形態が現われるのである。もしこの材料が時系列をなすなら、即ちこの大量的に多数な事象の間に歴史的な時間[#「歴史的な時間」に傍点]に相応した系列的な連絡が想定される場合には、材料が示す事象の時間的変動は、この統計解析によって、いくつかの基本的[#「基本的」に傍点]変動形態に分解され、夫々の変動形態が独立に取り出される*。統計解析は更にこの独立に取り出された一定の変動形態を、より単純な相互に独立な最後の要素的[#「要素的」に傍点]変動形態の合成として分解したり(フリエの調和解析)、又二種以上の異った材料の夫々の変動形態の相互間に、各種の相関関係[#「相関関係」に傍点]を見出すことも出来る**。――こうして統計的操作は、科学研究のための材料を収集し提供する処の一つの[#「一つの」に傍点]手段なのである。
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* 例えば偶然変動・長期変動・季節的変動・周期的変動=狭義のコンユンクテゥール(景気変動)などに分解される。
** 統計解析に就いては小倉金之助「数理統計」(改造社版『統計学』上)を見よ。
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 社会科学に於ける統計的操作の役割に就いては、改めて説明するまでもあるまい。この操作を用いないでは社会科学的方法は殆んど全くその材料を獲得することが出来ない。問題は自然科学に於て夫がどれだけの役割を有つかである。併し、自然科学に於ても統計的なるもの[#「統計的なるもの」に傍点]は至る処に見出される。例えばメンデルによる雑種植物の変種に関する統計的操作であるとか、マクスウェルやボルツマンの古典的統計操作であるとか、ハイゼンベルクの不確定性原理によって、核外自由エレクトロンが各瞬間に於て空間上に占める定位を厳密に観察することが原則上不可能であることから、一定時一定場所に於けるエレクトロンの存在がプロバビリティー[#「プロバビリティー」に傍点]に他ならないということとか、それからエントロピーの増加率が統計的な蓋然性しか持たないとか、という現象が夫である。
 だが問題は、こうした統計的操作や、又こうした確率現象に対して必要な統計的取り扱いが、どれだけ自然科学的研究様式[#「研究様式」に傍点]の内容として重大な役割を演じているか、ということだ。大量観察という統計的操作の第一規定も、右に挙げた例のような場合には、社会科学に於ける本来の大量観察とはその性質を異にしている(前を見よ)。それに、プロバビリティーが現われる
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