Aプリオリではあり得ない。その意味に於てニュートンの自然科学に形而上学的[#「形而上学的」に傍点]な・アプリオリな・原理(Prinzipien=〔Anfangsgru:nde〕)を与えようと欲したカントは、全く失敗だったと云わねばならぬ。相対性理論と量子力学とは今の処殆んど調和的な連絡がついていないと見ていいだろうが、そこから、相対性原理に対する量子力学側からの懐疑と、又不確定性原理乃至因果否定論に対する相対性理論側からの不信とを、今日の物理学者達は告白している。この二つの原則が、従来の物理学を根本的に変革した程(相対的原則はガリレイ・ニュートン以来の古典[#「古典」に傍点]力学を、そして不確定性原則は更にアインシュタインまでを含めた古典[#「古典」に傍点]物理学を、革命的に変革した)、近代自然科学に於て指導的な方法の役割を有っているのだが、それにも拘らず之は全く、実験[#「実験」に傍点]的経験とそれの整頓としての理論[#「理論」に傍点]との経験的所産に他ならなかったのである。
 マルクス主義的史的唯物論の原則(生産力と生産関係との弁証法)も亦、云うまでもなく経験的[#「経験的」に傍点]な原則[#「原則」に傍点]であり、社会に於ける大衆乃至無産者が最も切実に受け取る経験的認識からの結論に他ならない。――処でこの原則に対する懐疑や或いは寧ろ決定的な攻撃や否定が、矢張り又何等か之に対立した科学的原則として現われるかと思うと、そうではなしに、夫はガリレイを前にした法皇の権威を以てしか現われないのが常だ。之は注目すべき興味のある事実である。――蓋しブルジョア社会科学の殆んど凡てのものは、甚だしいのになると何等の法則乃至公式を発見することが出来ず、或いは法則を原則にまで高めることが出来ない。だからその方法たるものも、原則とは何等関係のないもので、仮設の資格をさえ持つ理由を失った「主観的」な態度[#「態度」に傍点]に帰せられ勝ちであったのだ。
 以上は一般に科学に於ける方法なるものの単なる輪郭に就いて、述べたのだが、併し方法はもっと実質的な諸内容を有っている。最後に、云わば方法の実体とでもいうべきものが残っているのである。自然科学と社会科学とに就いて、之をその共通性と特異性とに従って、述べねばならぬ*。
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* 以上に就いては拙稿「社会科学に於ける実験と統計」(『現代哲学講話』〔前出〕の中)及び「社会科学に於ける方法」(『綜合科学』4号〔本全集第三巻所収〕)を参照。
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 マルクスが『資本論』の第二版序文に於て、科学方法を研究方法[#「研究方法」に傍点](Forschungsweise)と叙述方法[#「叙述方法」に傍点](Darstellungsweise)とに分けたことは、よく知られている。之は独り社会科学にだけ通用する区別ではない。研究方法は、すでに見た通り、個々[#「個々」に傍点]の経験資料乃至認識材料から何等かの一般的[#「一般的」に傍点]な関係を導き出すという方向に向っているのであって、之は研究者達の云わば頭脳の内に於ける個人的乃至主体的な過程である。処で之を社会に向って或いは自分自身に向ってでもいい、客体化されなければ、この研究の成果は最後の具体的な形態と記録としての客観性とを有たない。そうしなければ社会的通用性を有たないのである。このために必要なのが叙述方法であって、之は研究方法とは逆に、すでに抽出された何等か一般的な関係から出発して、之を個々の事象にまで体系的[#「体系的」に傍点]に展開するという方向を取る。
 研究方法の方は云わば極めて専門技術的な様式を有った方法であるが、叙述方法の方は云わば広義に於ける文献的=文学的な様式を有つ。例えば実験は研究方法の一部となって機能するが、この実験の結果を報告することは、叙述方法にぞくする。叙述と云えばどのような場合でも広義に於て文学的なものであらざるを得ない。少くとも言葉や文字や補助文字としての記号などを用いなければ、叙述は出来ないからだ。――だがこの二つの方法は(私は之を後の便宜のために様式[#「様式」に傍点]――研究様式と叙述様式――と呼ぶことにする)、交互的な連関を有っている。というのは如何なる叙述様式も予め研究様式があっての上でなければならないのは当然だが、それだけではなく逆に、発達した一切の研究様式はいつも夫々先行する叙述様式を想定せずには成立しないのである*。例えばどのような自然科学的実験的研究でも、それまでの自然科学の歴史的発達(それは書物や文献や教育によって保維される)を想定した上でしか形を有ち得ない、ということに他ならない。スペクトルによる実験が天体に於ける一定の元素の存在を証明するということは、気体元素の光波吸収の理論と合成光線の分光の理論とに俟つことは云うまでもないが、こうした理論が科学的な既知の知識として伝承され得ることは、全く科学の叙述様式が与える賜である。その意味に於て叙述様式は云わば文献的=文学的な方法だというのであって、特に哲学や社会科学に於けるこの様式の役割は、意外に大きいと云わねばならぬ*。二つの諸様式はだから交互に想定し合っているということを、予め注意しておかなくてはならぬ。
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* 哲学に於ける叙述様式は、往々にしてその研究様式と混同されたり之に代用されたりし勝ちである。こうして哲学の或るものは全く文学的作品或いは寧ろ作文の性質を有ち易い。叙述様式がそのまま実在の体系だと考えたものは代表的なドイツ観念論者フィヒテであった(その『知識学』)。――それから自然科学は、その叙述様式の不整備のために、往々にしてその専門的研究から無意味な他愛のない人文的諸理論を導き出しがちだ。叙述様式は根本概念=範疇を表面に出して用いなければならないのだが、そのための普遍的な範疇組織のどれに、科学性があるかは、哲学の理論的な研究に負うわけで、そこに専門科学者の躓きがちな閾があるのである。
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 数理経済学者と称する或る種の学者は、マルクス主義的経済学(正統派経済学もそうだが)の叙述様式が、文学的[#「文学的」に傍点]であって数学的でないという理由で、充分科学的でないと非難する。だが、こういう数学振り[#「数学振り」に傍点]の一般的なナンセンスは別として、数学的な叙述が文学的叙述でないなどということは、嗤うべき迷信だろう。
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 だがこの研究様式(叙述方法から区別された限りの研究方法)は、一応明らかなように見えて実は殆んど全くその実質を把握されていないものではないかと考えられる。例えば実験や計算も研究様式だろうし、演繹や帰納もそうだと考えられている。統計も事物の観念的分析もそうだというわけだが、処が夫々を比較して見るとどこにも相互の連絡のつきそうな手懸りはないのである。で、この点を少し整理する必要がある。
 そこで必要なのは研究様式[#「研究様式」に傍点]と研究手段[#「研究手段」に傍点](或いは操作[#「操作」に傍点])との区別である。計算や演算や実験は云うまでもなく明らかに一種の科学的な操作なのである。それ故人々はすぐ様之が研究の方法様式[#「方法様式」に傍点]だと考えたがる。だがここには様式と操作=手段との混同がある。そしてこの混同には理由がある。例えば実験は確かに単なる研究手段=操作である、だが夫と同時に、それは一定の研究様式内に於てはその研究様式の一内容としても機能するからである*。併し研究手段[#「研究手段」に傍点]=操作[#「操作」に傍点]は、夫が研究様式[#「研究様式」に傍点]という統一体の具体的な一内容として定着される時初めて、研究様式、方法の資格を(恐らく部分的に)獲得するのである。そうでない限り、単なる研究手段は随時に各処に存在する断片的[#「断片的」に傍点]なオペレーションなのである。で今、研究手段=操作に就いて考えて見よう。
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* 拙稿「社会科学に於ける実験と統計」(前出)に於ては、実験的方法[#「的方法」に傍点]や統計的方法[#「的方法」に傍点]なるものを考えたのであるが、之自身は実は、あくまで実験的手段[#「手段」に傍点]や統計的手段[#「手段」に傍点]に止まるべきもので、それ自身[#「自身」に傍点]が方法となると考えた点は訂正しなければならぬ。――後を見よ。
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 所謂形式論理学は従来、科学の研究方法=研究様式を与えるものだと考えられて来ている。だが之は実は必ずしも当ってはいなかった。第一それは研究のオルガノン(用具)即ち研究手段[#「手段」に傍点]=操作を与えるものをしか意味していなかった。事実単にこのオルガノンだけで出来上る研究は、アリストテレス自身に於ても存在しなかったので、他の何等かの統一的な研究様式の下にこの用具を用いて初めて、科学的研究が出来たのだった。ベーコンの新しいオルガノンに就いても、実際はこの点に就いて異るものはないので、帰納を研究様式とするような科学があったとすれば、それは恐らく当時のガリレイの物理学の水準を遙かに下回っていたものに相違なかっただろう。で所謂演繹[#「演繹」に傍点]も帰納[#「帰納」に傍点]も、実は研究様式ではなくて研究手段[#「手段」に傍点]に他ならなかった。
 演繹と帰納とは併し、まだ形式的[#「形式的」に傍点]な研究手段に過ぎない。全く之は、形式[#「形式」に傍点]論理学の内容に相応わしい内容をしか有たない。処が実質的[#「実質的」に傍点]な研究手段こそ、科学にとって実際に役立っている科学的操作なのである。この実質的研究手段には大略、四つのものがぞくする。第一は分析[#「分析」に傍点]的操作、第二は解析[#「解析」に傍点]的操作、第三は統計[#「統計」に傍点]的操作、第四は実験[#「実験」に傍点]的操作である。こうした夫々の科学手段・科学的操作が、どのような特色をもち、自然科学や社会科学(又哲学)に於てどのような特殊形態を与えられ、それから研究様式と、又序でに叙述様式と、どう関係するかを、見て行かねばならぬ。

 分析的操作[#「分析的操作」に傍点]。数学的解析の操作から区別された、概念に於ける、概念による、分析をいう。経験された現実(それは事実[#「事実」に傍点]と呼ばれるが)に関する表象をば、表象又は概念を確定することによって分解し、更に之を再結合する処の操作を云う。分解したものを再結合するという意味に於ては、之は却って総合[#「総合」に傍点]と呼ばれている。元来分析と総合とは同一操作の位相の相違にしか過ぎない(一切の判断は、分析判断と雖も、総合判断である――カント)。之は科学的操作としてばかりでなく、吾々が普通用いる常識的操作としても、最も日常的であり従って又最も基本的で一般的なもので、例えば一切の評論に用いられる多少とも理論的な操作も、之にぞくする。だから又自然科学であっても、之を援用しなければ一つの理論も否一つの実験さえも、不可能となる。例えばエーテルの存在するしないを理論づけ又実験するにも、一体エーテルなる概念が歴史的に何であるかを先ず分析してかからなければ、無駄に終る。エーテルが極微な抵抗のない可秤性を欠いた物質[#「物質」に傍点]であるのか、それとも単に何等かの力の場としての空間[#「空間」に傍点]のことでいいのか、を決定しないで、エーテルに関する理論も実験も意味がない。物質概念の分析が不充分だと、物質が消滅したしないで、形而上学的な不毛な議論をしなければならなくなる。又例えば重力という物理学的術語は、常識的な観念としての重さや抵抗力の観念から全く独立には、なぜ重力と呼ぶのかが遂に全く理解されなくなるだろうが、そのようにこの分析的操作は、専門的な範疇と日常的な観念との媒介点を明らかにし、科学の尤もらしさを保証するという点で、最も重大な理論的機能を有つの
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