泣激塔_ー・アードラー・等)の方法も亦これにぞくする。だが社会的現実を倫理的な個人意志の連関関係にまで、抽象・還元・形式化す点に於て、之は倫理主義[#「倫理主義」に傍点]の形態を取る種類のものである*。又特殊の形式主義化を意識的に方法として採用するものは、数理経済学などだろう**。――処が形式主義としての観念論は、更に、一方に於て非歴史主義[#「非歴史主義」に傍点]に、他方に於て機械主義[#「機械主義」に傍点]に、帰着する。即ち第四に、この範疇組織は、実は云わば反弁証法主義[#「反弁証法主義」に傍点]に他ならなかった。古典的正統派経済学の方法は、非歴史的方法の特徴的な場合であった。併し例えば生産力と権力、階級と国家、などを同一平面に於て並置してその理論を出発させる処の、今日の各種の(専門的乃至デマゴギー的)ブルジョア社会理論が、凡て機械主義的範疇組織の最も複雑な狡猾な使用法を意味していることも亦、忘れられてはならない。
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* 倫理主義は一面歴史理論に於ける目的論に関係している。だから形式主義からではなくて却って歴史学派の立場からさえも、倫理主義は可能なのである。――ユートピア的社会主義(プラトンに始まりプルードンに終り、そして今日でもファシストの或る者や「新しい村」などに生き残っている処の)は、必ずしも科学(?)とは云えないが、云うまでもなくこの倫理主義にぞくする(倫理主義に就いては、前掲コーン『プロレタリア経済学の方法論』参照)。
** L・ヴァルラス、V・パレート等の経済的諸項の均衡理論――それが数学的方程式によって云い表わされるとする。中山伊知郎『数理経済学方法論』(改造社版・『経済学全集』第五巻)、及びA・クルノー『富の理論の数学的原理に関する研究』(中山訳)を見よ。
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 かくてブルジョア社会科学は全体として、その論理=範疇組織に於て、即ち最も根本的な意味に於けるその方法[#「方法」に傍点]に於て、プロレタリア社会科学に対立する(矛盾し又は接触を回避する)ことをば、寧ろその唯一の認識目的とさえしている、と云ってもよい位いなのである。――二つの社会科学の方法が、その建前[#「建前」に傍点]から云って全く異らざるを得ない所以である。
 史的唯物論に就いては、後に一纏めに述べよう。今はさし当り、社会科学に於ける右の対立に注目しておいた上で、さて、一般[#「一般」に傍点]に科学――社会科学と自然科学・又哲学――に於ける方法の最も一般的な輪郭的な構造をまず明らかにしよう。と云うのは、科学的認識一般[#「科学的認識一般」に傍点]に於ける、実在反映=認識構成の、基本的な科学手続きの輪郭をまず初めに分析しよう。
 云うまでもなく科学は、一般に経験[#「経験」に傍点]の組織されたものを云うのである。それは狭義に於ける「科学」――分科の学――に於いても、又総合的な「哲学」についてもそうだ(一切の哲学が経験の組織であることを明らかにしたものとして、ヘーゲルの『精神現象学』と『小論理学』の「予備概念」の項とを挙げることが出来る)。数学さえも或る意味に於ける経験の組織でなければならぬ。この点数学者自身の数理哲学的観点如何に拘らず、そう主張出来る理由が存する(後を見よ)。――ではこの経験[#「経験」に傍点]とは何か。
 経験の概念に於ける困難は、一種の二元論を克服しなければならぬという課題に現われる。と云うのは、経験自身、夫が経験であるためには、即ち人間社会に共通であり得るような、或いは少なくとも夫々の人間の経験として是認され尊重されて通用し得るような、経験であるためには、実は単なる[#「単なる」に傍点]経験に止まることが出来ないのである。なぜなら、もし単なる[#「単なる」に傍点]経験に止まるなら、即ち個人々々の経験であってそれ以上の価値を生まないことをその本来の面目とするものならば、夫は全く経験主義[#「経験主義」に傍点]的な而も(当然そうなるが)独我論[#「独我論」に傍点]的な意味に於ける経験でしかあり得ない。個人Aの経験は単にAにとってだけ信用されるのであって、仮に個人Bが之と同じ経験を有ったと号するにしても、経験Aと経験Bとが同じであるかないかは判定の由がない。否、凡そ一致する経験というものはどこにもあってはならない筈だろう。処が事実はそうではなくて、経験は人間社会に於て最も信頼されている処の認識の出発点なのである。単に銘々の個人が自分の固有な経験を独我的に信頼するだけではなく、社会が銘々の個人の固有な経験を信用しているのである。して見ると、経験は個人が経験したということ以外に、個人がやがて経験するだろう処の、そして更に社会の人間が多分経験しただろう又経験しているだろう又やがて経験するだろう処の、否、皆がその条件さえ与えられれば必ず経験する筈である処の、内容であらざるを得ない。で経験はそれ自身に、超経験的な、或いは先経験的な、即ちもはや経験論的[#「論的」に傍点]ではない処の、或るものを含んでいる、ということになる*。
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* カントはそこで経験の根柢に「アプリオリ」を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]入[#「※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]入」に傍点]した。処がE・デュルケムの実証主義は、経験の内からこのアプリオリを導き出して見せる(拙稿「知識社会学の批判」――『イデオロギー概論』〔前出〕の中――参照)。だがアプリオリなるものは、元来二元論用の用語に他ならなかった。
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 併しここで、経験の組織[#「組織」に傍点]という点に注目しなければならぬ。組織にとって必要なものは、第一に経験の蓄積[#「蓄積」に傍点]である。処が蓄積はそれまでの経験の保存に俟つ。経験が保存[#「保存」に傍点]されるためには、記憶がそうであるように、夫の一定の整理[#「整理」に傍点]が必要だ。だから一つの新しい経験は、いつも既得の経験の整理された地盤の上でしか受け取られず、又云わばその再整理のためにしか受け取られない。この整理を負担に感じる鈍重下根な意識は、だから新しい経験を恐れ又は排撃する。無論、そうした主体側の用意と活動意識がない時でも、印象は外部から強制的に与えられることもある。だがそれは、そうしたものとしては、単なる雑多な知覚乃至感覚の段階に足踏みする、宿命を持っているだろう。真の経験は、即ち云わば世界を経めぐりつつ生活を験めすというこの人間的過程は、勿論知覚乃至感覚から出発するのであるが、併し単なる知覚[#「知覚」は底本では「知角」]や感覚は、まだ経験という資格を有っていない。雑多な知覚や感覚が整理されてこそ初めて経験だったのだ。
 だから、科学が経験の組織だと云ったが、その経験自身が、すでに整頓された組織物でしかない。処でこの経験に於ける組織関係そのものは、夫までの経験による組織であると同時に、即ち経験の所産[#「所産」に傍点]であり結果[#「結果」に傍点]であると同時に、今後の経験の指導的条件[#「指導的条件」に傍点]をなさねばならぬものである。即ち経験の想定[#「想定」に傍点]であり予想[#「予想」に傍点](Antizipation=Voraussetzung)なのである。ここに経験に於ける超経験的乃至先経験的と呼ばれるモメントが潜んでいる。実は夫は超経験的でも先経験的でもないのであって、全く経験の内部のものにすぎないが、併し大切なのは、この経験が、自分自身を云わば自発的に又自律的に構成して行く組織=メカニズムを持っているということだ。経験の他にアプリオリか何かがあるのではない。知覚乃至感覚が発生する実際上の条件そのものが、この経験組織だったのである(形態心理学に於ける知覚のゲシタルトの理論を見よ)。――で経験のこうしたそれ自身に於ける組織性を用いて、之を目的意識的[#「目的意識的」に傍点]に展開したものが、経験の所謂組織としての科学[#「科学」に傍点]に他ならなかった。
 この目的意識は併しどういう方向に向って発動するか。それは経験の整頓から一定の諸法則[#「法則」に傍点]を導くように発動する。法則(経験的法則)は経験の実地的な指導[#「指導」に傍点]のために、常に必要欠くべからざる認識形態なのである。吾々は経験的法則を待たずには一歩も経験を進めることは事実上出来ない。何等かの意味に於て法則を不用なものと考えるのは、必ず経験の実地的な前進を認識目的としない時に限る。例えばだから、事物のただの解釈にとっては、法則などは殆んど全く用がない、夫は例の「構造連関」や「価値への関係づけ」で充分だったわけである*。
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* 法則は公式[#「公式」に傍点]乃至定式[#「定式」に傍点](Formula)として表示される。公式を有たず又公式を利用しないでいい科学は、本来一つも存在し得ない筈である。公式を未知の領域に向って使用する代りに、既知の公式を反覆証明することを、公式主義という。公式主義とはつまり、公式を使用しない[#「使用しない」に傍点]ことを意味すると云ってもいい。
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 法則は併し、云うまでもなく一種の共通性・普遍性(一般性)・反覆可能性を有たざるを得ない。凡そ一般性を全く欠いた事物や事態はあり得ない。だがこのことは、法則がその特殊的な諸形態へ展開[#「展開」に傍点]すること(ただの適用だけではない)と、自分自身がまたすでに一つの特殊的な形態であったものとして、より普遍的な形態へと移行することと、従ってそのためにこの法則そのものが他の特殊な形態へと変化[#「変化」に傍点]することとを、除外するものではない。特に社会[#「社会」に傍点]に於ける「歴史的」法則は、今のこの関係を顕著に示している。法則は常に普遍的なものだ。そうでなければ決して法則の名には値いしない。だがそれが生きた法則であるためには、いつも自身が特殊だという自分の影を背負っている。この影を飛び越えることは出来ない。ドイツのロマン派文士シャミッソーは、影のないシュレーミール氏を創造したが、「科学方法論」者や社会科学対自然科学の方法分裂政策家達は、自然科学に向って絶対普遍的[#「絶対普遍的」に傍点]な「法則」を創造して押しつけたのであった。
 尤も経験的法則と云えば、つまりは経験の組織体である科学の一認識内容に過ぎないのだが、併しこの法則が根本的な場合になればなる程、即ちこの法則が科学の前進に於て有つ経験指導の指導範囲が広ければ広い程、法則は原則[#「原則」に傍点]に接近する*。原則は殆んど完全に科学そのものを指導するように見える。だから原則はそれ自身方法[#「方法」に傍点]のことであるとも見做されている。因果律(因果法則[#「法則」に傍点])は実は因果原則[#「原則」に傍点]乃至因果性と呼ばれる方が適切だろう。相対性原理[#「原理」に傍点]や不確定性原理[#「原理」に傍点]は、もはやただの経験的法則(Gesetz)ではなくて、こうして諸法則そのものを制定させる処の原則(Prinzip)なのである。
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* H・ポアンカレなども Lois と Principe とを区別する。――なお仮説[#「仮説」に傍点](臆説)という観念(それは経験の一般化的拡大――〔Ge'ne'ralisation〕――と考えられる)は、恰も「経験的」なこの経験が、云わば超経験的なこの法則や原則を生み出すという過程を、多少経験論的[#「経験論的」に傍点]に云い表わしたものである(〔H. Poincare'〕, 〔La Science et l'Hypothe`se〕 参照)。
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 原則(原理)と雖も、経験的法則が役づきとなり幹部に昇格したものに他ならなかったから、決して単なる所謂
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