fオロギーの社会学[#「社会学」に傍点]ではない)と連関せしめられるのである。イデオロギーの科学的批評――それはジャーナリズムから出て来た――は、イデオロギーの論理学とイデオロギーの社会科学との数学的相乗積にも当るだろう*。
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* アカデミズムとジャーナリズムとの一般的な分析は拙稿「アカデミーとジャーナリズム」(『思想』一〇一号)及び「批評の問題」(同誌一二三号)を見よ【いずれも本全集第三巻所収】。
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かくてイデオロギーの科学的批評によって、イデオロギーの意識[#「意識」に傍点]としての側面と、歴史的社会的存在[#「歴史的社会的存在」に傍点]としての側面とが、具体的に媒介される。之は外でもない、イデオロギーの社会学[#「社会学」に傍点]のメカニズム――ジャーナリズム・アカデミズム機構――のお陰であった。ここまで来てイデオロギーの論理学は初めて現実的情勢に即するまでに具体化されるのである。
吾々は今や、イデオロギー論の課題の具体的な形態に問題を進めることが出来る。イデオロギー論は言葉通り、イデオロギーの理論だが、夫は一体イデオロギーをどうする理論なのであるか。或る種の――例えば社会学的[#「社会学的」に傍点]な――イデオロギー論は、一応(だが無論初めから不充分なのではあるが)イデオロギーの存在を承認しながら(何となれば社会学者は必ずしもイデオロギーの概念を充分に承認するとは限らない)、諸々のイデオロギーを「公平」に観察して夫々を特色づけるだけで、その間の資格の前後・優劣を決定しようと欲しない。ブルジョアジーはブルジョアジーのイデオロギーを持ち、プロレタリアは又之とは異ったイデオロギーを持つ、ということを指摘して、高々夫々の社会学的必然性を解釈するに止めようとするのである。
唯物史観によるイデオロギー論は、そして元来本当のイデオロギー論は歴史的に見ても理論的に云っても唯物論のものでしかないのだが、之に反して、諸々のイデオロギーを批判[#「批判」に傍点]しないではおかない。それは夫々のイデオロギーの優劣・可否を判定することをこそその認識目的とする。実際、もしそうでなければ、一体イデオロギー論は何の役に立つだろうか。役に立つことを目的意識に取り入れない理論はすでに理論の第一の資格を欠いている。――処で
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