vに傍点]に外ならなかった、単なる批評もなければ単なる実証もあり得ない、在るものは何かの形態に於ける両者の結合でしかない。
文学の制作[#「制作」に傍点]は一つの実証である、それは他人の制作した作品を品|隲《しつ》するのではなくて、自ら生活材料を整理して形を与える処の一つの実証[#「実証」に傍点]的な探究である。この制作は併し実は、その制作者のそれ以前の制作に対する批評[#「批評」に傍点]を無視していなかった、ということを今注意しなければならない。この制作は批評から、この意味に於て一続きのつながりを有っていたのである、もしそうしなければ、制作の客観的な進歩は恐らく望み難いだろう。だが逆に又、批評家は或る意味に於て――少くとも可能的な制作家として――同時に作家でもなければならない、それが批評家の必要な資格なのである。そうすると批評は批評者の――可能的な――制作を仮定しないではなり立たない、そうでなければ批評は全く外部的な印象[#「印象」に傍点]でしか無くなるだろう。この点から見れば、批評は又制作から、この意味で一続きのつながりを持っていなくてはならない。――実際の現象としては作家と批評家は資格として又個体として別ではあるが、批評と制作との間には本質的にはこうした連関が横たわっている。
之は文学に於ける批評と制作との連関であるが、一般に文化イデオロギー――文芸や科学――に於ける批評的モメントと実証的モメントとの連関は、今のをそのまま拡大して考えることが出来る。で今度は諸科学に於ける批評的契機と実証的契機との連関を注意しよう。そこにも今云った限りの連関のあることは云うまでもないが、ここではそれ以上に、両者のより特徴ある連関の関係が浮き出して来る。と云うのは諸科学に於ては批評と実証とが極めて近く歩みよっているから、二つの連関は特別な相貌を呈して来るのである。――諸科学に於ける批評は、それ自身実証的な内容をもつのでなければ批評とならず、又その実証は予め他の実証的研究の批評を基礎にしない限り始められない。実証は批評的であり(例えば文献の整理・他の所説の歴史への顧慮・を必要とする)、又批評は実証的である(例えば新しい実験によって従前の実験の結果をたしかめたり覆したりする)。ここにあるものは批評的実証[#「批評的実証」に傍点]乃至実証的批評[#「実証的批評」に傍点]である。吾々
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