ヲば、アカデミズムによる科学研究法は、科学のための科学として、純粋学[#「純粋学」に傍点]の追求となって現われる。アカデミズムが難解[#「難解」に傍点]を意味したり、衒学[#「衒学」に傍点]を意味したりしがちなのも無理ではない。――少くともアカデミズムは現実行動性・時事性によっては動かないという処に、その特色を有っている。それは何か超現実行動的・超時事的・な原理によって運ばれる処の、文化イデオロギーの一つの契機と一つの形態なのである。
このことは併し、前に述べた連関から当然、アカデミズムの専門化[#「専門化」に傍点]を結果する筈であった。例えば科学は、言葉通り分科の学[#「分科の学」に傍点]として、それぞれの専門の分科の外へ出る必要を感じることなく、展開することが出来る。諸専門部門の間の総合統一は、この視角からすれば二次的な或いは無用な配慮でしかないと考えられる場合さえ少なくない。哲学と雖も、アカデミズムにかかっては哲学的[#「哲学的」に傍点]――世界観的[#「世界観的」に傍点]・思想的[#「思想的」に傍点]――に取り扱われなくても好い、問題は専門的な哲学的知識[#「知識」に傍点]又は技術[#「技術」に傍点]だけだ、と考えられる。
[#3字下げ]三[#「三」は小見出し]
さてジャーナリズムとアカデミズムとを一応こう対立[#「対立」に傍点]させるとして、二つのものがどういう連関[#「連関」に傍点]にあるかが問題となる。――二つのものは事物に対する人々のイデオロギー的活動の、あり得べき二つの態度なのである。イデオロギー的活動のこの二つの契機乃至形態は、夫々が社会の上部構造のものであったということから、必然的な連関を与えられる。
抑々ジャーナリズムは歴史的社会の運動の本質に於て一つの必然的な役割を有っている。それは社会の歴史的発展の運動形式に忠実であることを一時も忘れない処の、イデオロギーの運動形式なのである。だがそれが基本的な――下部構造としての――歴史的社会の運動にあまり忠実であろうとすることから、この忠実さが却って姑息な形骸となり、結果としてジャーナリズムは歴史的社会の運動を指導する独立なそれ自身の原理を見失って了うということにもなる。かくて人々によればジャーナリズムは全く無定見な日和見に時を費すものであるかのようである。
処がアカデミズムは丁度之に反し
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