ホそれはエンサイクロペディック[#「エンサイクロペディック」に傍点]な特徴を有って来る。常識とは実際そういうものではなかったか。――元来ジャーナリズムは常に話題[#「話題」に傍点](Topik)に上り得るものでなければならない。話題とは凡ゆる部門的な分科的な事物が、言葉[#「言葉」に傍点]という共通な場処[#「場処」に傍点](Topos)をめざして集まる[#「集まる」に傍点]ことを示唆する言葉である。この集まる場処は市場[#「市場」に傍点]の外ではなく、そこで一切の知識が交換され(ニュース・評判)、訂正総合され(議論)、又誇張されたり捏造されたりする(虚偽[#「虚偽」に傍点])。かくて常識[#「常識」に傍点]――ドクサ――が養成される、神話[#「神話」に傍点]や世論[#「世論」に傍点]が出来上るのである*。やがてここで又範疇[#「範疇」に傍点]――之は公衆に向って語ることを意味する言葉で市場[#「市場」に傍点]と語原を同じくする――が発生し、論理[#「論理」に傍点]が構成され、理論[#「理論」に傍点]が出来上る。之が哲学的世界観に外ならない。哲学は常識のものであり、ジャーナリズムのものである。
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* フランシス・ベーコンの『市場の偶像』を参考せよ。
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ジャーナリズムをこう規定すれば、之に対立するアカデミズムは割合簡単に決定出来る。アカデミーという言葉が、アカデメイヤに建てられたプラトンの学壇から起こったように、アカデミズムは教壇[#「教壇」に傍点]という特殊[#「特殊」に傍点]な――一般的でない――社会的存在条件を仮定している。それが人々の一般的な[#「一般的な」に傍点]日常生活の圏外に初めから逸していることを注意せねばならぬ。そこでは、常識は未熟なドクサとして、高貴な真理[#「真理」に傍点]から峻別されねばならない。と云うのは、一定の学派的訓練[#「学派的訓練」に傍点]によってしか見出されないような伝統的問題[#「伝統的問題」に傍点]の解答としてしか、真理は真理として現われることが出来ぬ。アカデミズムは一般社会[#「一般社会」に傍点]の現実行動的・時事的・な諸関心とは関係なく、アカデミーと呼ばれる特殊な社会圏だけにとってしか問題にならない問題に専ら関心を制限する。だから例えば社会科学などに就いて云
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