nse, Gemeinsinn ――という言葉は、アリストテレスの De Anima に於ける共通感覚[#「共通感覚」に傍点](共通感官・共通感)から来たのであるが、それが五官に[#「五官に」に傍点]共通であることから転じて、人間一般に[#「人間一般に」に傍点]共通であることに変化して来て常識[#「常識」に傍点]となり、トーマス・リードの手によってそれが真理の直覚的な公理の提供者とさえなった。無論リードなどが考えていた人間一般は英国風の人間学――人性論(human nature の理論)――にぞくすると考えて好いから、すでに特殊な哲学史的制限を持っているのであるが、人々の常識[#「人々の常識」に傍点]は、この常識という概念を、実はもっと健全に理解している。というのは、凡ゆる人間に共通な根本的知識など事実あり得ないのが本当であって、実際の常識とは、世間の一般の人々[#「世間の一般の人々」に傍点](必ずしも総てである必要はない)にとって共通に通用する能力・知識及び見解を意味すると人々は考える。それは凡ゆる人間が事実立脚している公理的[#「公理的」に傍点]な知識ではなくて、却って凡ゆる人間が準拠すべき規範[#「規範」に傍点]・理想的態度[#「態度」に傍点]としての性格を有っている。だから知的常識[#「知的常識」に傍点]の効用を却けたカントも、趣味判断に於ては美的常識――美的共通感覚(Sensus Communis aestheticus)――に根拠を求めることが出来、またそうせねばならなかった。――日常性はこうした常識が自分自身で持っている原理なのである。常識は他の何かの原理からの脱落や背反ではない、それ自身の原理を有っている。
ジャーナリズムが日常生活に根を有ち、従って常識的であるということは、ここからもう一遍規定し直されなければならなくなる。もしそうしなければ、一般にジャーナリズムは、多くのアカデミケルが無意味に反覆しているように、何の積極的な価値も有たない処の、一つの不思議な――悪魔と同じに説明し難い――現象でしかなくなるだろう。
ジャーナリズムの特色は実は、その現実行動性[#「現実行動性」に傍点]・時事性[#「時事性」に傍点](actuality)になければならなかったのである。と云うのは、それは、歴史の上からは現在性[#「現在性」に傍点]として、存在[#「
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