謌黷ノ注意しなければならない。それは人間の日常生活[#「日常生活」に傍点]にその根を有つ処のイデオロギーの一形態乃至一契機なのである。日常生活は、仮にそれが公の生活ではなくて、個人の私的生活であっても、常に何か社会的[#「社会的」に傍点]な生活である。日の光は人間社会の――私的又公的――交渉の一日を開き又閉じる、人々にとっては社会的共通生活[#「社会的共通生活」に傍点]に這入ることによって一日が始まり、この生活から離れることによって一日が終るのである。そこでは私的個人の内部的な[#「内部的な」に傍点]「生」と普通考えられるものは、そのままではもはや殆んど問題になる資格を持てないし、異常なもの[#「異常なもの」に傍点]はこの社会的共通生活から除外されるか又は之によって平均されて了うのである。
(だから、人間の特異な内面性を誇張したり、異常な生の体験に依り処を求めたりすることによって、この社会的共通生活からの脱却を企てる宗教意識にとっては、この日常生活の原理――日常性[#「日常性」に傍点]――は、何か外面的で卑俗[#「外面的で卑俗」に傍点]なものとしか考えられない。それは何等の崇高さも高遠さも持たないものであるかのように貶されるのを常とする。)
こうした日々の日常生活にその根を有っていたジャーナリズムは、普通世間の人々の平均的な知識・日常的知識と考えられる精神能力によって運ばれる。人々はこの能力を無雑作に常識[#「常識」に傍点]と呼んでいるのである。処で常識にとっては専門的[#「専門的」に傍点]な知識は一応不用であり又時に有害でさえあると考えられる、常識は通俗的[#「通俗的」に傍点]だという意味に於ても、又世間に知れ渡る[#「知れ渡る」に傍点]という意味に於ても、ポピュラー[#「ポピュラー」に傍点]であることが出来る、夫は例えば公衆(Public)によって支持される知識である、とそう人々は考えている。
だが日常性[#「日常性」に傍点]乃至常識[#「常識」に傍点]の概念をこのようなものとしてしか理解しないことは、夫自身之に対する――劣悪な意味での――常識的理解でしかない。常識は一方に於て共通的な・平均された・凡庸な・知識を意味しないのではないが、他方に於て又健全な良識[#「健全な良識」に傍点](ボンサンス)をも意味しているのが事実である。元来常識―― Common s
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