フ性に対応して、具体性を有って来なければならぬ。論理は具体的な形態性を有って来なければならぬ。その形態がまず第一に範疇[#「範疇」に傍点]なのである。
 普通、範疇は根本概念[#「根本概念」に傍点]を意味する。だがその際、論理という概念が意識全般を支配する骨髄として理解されねばならなかったと同じく、概念という概念も亦、観念[#「観念」に傍点]の凡てに渡る骨髄として理解されなければならぬ。人々はよく、芸術や信仰に就いて、概念的なものを排斥せねばならぬ、というようなことを口にする。例えば芸術的感覚[#「感覚」に傍点]は概念的[#「概念的」に傍点]なるものの正反対だと考える。併し概念という言葉をそういう風に使うことは全く俗物的な習慣からに過ぎないのであって(概略の観念という如き)、概念という言葉はもっと立ち入った基本的な意味の下に用いられることを必要とする。概念とは、形式論理学による学校式な定義とは一応無関係に、ヘーゲルに従って、把握の仕方一般[#「把握の仕方一般」に傍点]を指さねばならない。芸術的感覚も亦そういう把握の仕方の一つ[#「一つ」に傍点]に外ならない。そして人々の云う所謂概念的なるものは、理論的な[#「理論的な」に傍点]把握の仕方のことを恐らく指すのであろう。だが実際には、理論的な把握さえが、人々の云うような意味では単に概念的ではないのだが。
 そこで範疇は、こういう――基本的な意味での――概念の、根本的な場合を指すべきである。尤も、アリストテレスによれば範疇は言表の類型[#「言表の類型」に傍点]であり、カントによれば夫は認識形成の形式[#「認識形成の形式」に傍点]であるに止まっているが、之は範疇の至極部分的な示し方にしか過ぎない。元来範疇はこれ等の人々が考えたように、社会的に又は先天的に、与え[#「与え」に傍点]られているだけのものではない、範疇は社会的に発生[#「発生」に傍点]するものなのである。と云うのは、仮に範疇をばこれ等の人々がするように、言葉[#「言葉」に傍点]によって云い表わされた(根本)概念だとすれば、それよりも先に言葉で云い表わされたこういう(根本)概念を産まねばならなかった処の(根本)観念[#「観念」に傍点]が、すでに範疇の性格を持っていなくてはならないのである。範疇は、自らを範疇にまで生成する過程――歴史的社会に於ける――そのものによって
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