ッでは無論何も論理と呼ばれる理由はない、ただ夫が意識にまで反映される場合を予想し、或いはそれが意識にまで反映された結果から溯源して、初めて夫が論理として特色づけられる理由が出て来るのである。今は存在としての存在・存在それ自体・は問題ではなく、一般に存在の反映と考えられるイデオロギー――意識――が問題であったから、その限り存在は常に意識にまで反映され得る限りの存在として初めて問題となるのであるが、そうやって問題になる存在の必然的な構造が、取りも直さず常に論理として特色づけられる、と云うのである。で、存在の必然的な構造としてのこの論理が、意識の立体的な構成力の論理となって反映すればよいのである。――蓋し論理とは、存在と意識[#「存在と意識」に傍点]とを媒介する機能である、論理の媒介機能なくして存在の意識への反映はあり得ない。
存在の構造は論理という機関によって初めて、意識の立体的な構築として反映する、意識――イデオロギー――はそれ故に、意識形態[#「意識形態」に傍点]であらざるを得なかったのである。存在の構造[#「存在の構造」に傍点]は論理の機能によって、意識の形態[#「意識の形態」に傍点]にまで媒介・転化せしめられる。意識は元来、それ自身で独立な存在ではあり得なかった。それは終局に於て他の存在――意識と対立して考えられた存在――に依存するのであった。意識の精髄としての論理が、単に意識の限界に止まることが出来ず、意識を超えて、意識を存在にまで依存せしめる処のものとならねばならぬとすれば、それはだから至極当然ではなかった。――かくて吾々はイデオロギーの心理学[#「心理学」に傍点]を、イデオロギーの論理学[#「論理学」に傍点]にまで立体化する必要があったのである。
イデオロギーは併し、存在の単なる直接な反映ではない、単なる存在――夫は自然[#「自然」に傍点]によって代表される――が、歴史的社会的存在[#「歴史的社会的存在」に傍点]の框《かまち》を通って反映されて初めて、イデオロギーはイデオロギーの資格を得る筈であった。意識の形態を――存在から取って来て――与えるものが論理だと云ったが、具体的に云えば、この形態は実は、イデオロギーが反映しようとする対象の構造をば歴史的社会的存在の構造を通過させることによって、初めて形づくられるのであった。――それで論理も亦、この形態の具
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