の・意欲の・論理にまで、即ち一般に意識のかの三つの部面の全体を支配する処の論理にまでも、普遍化される。
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* 〔P. Lapie, Logique de la volonte'〕 及び 〔Th. Lipps, Fu:hlen, Wollen und Denken〕 を参照せよ。なおG・ル・ボンの諸著述は集団意識の論理を取扱っている(例えば Les Opinions et les Croyances)。――だが何よりも有名なのはヘーゲルの所謂「思惟」――吾々は之を論理と解釈して好いのだ――である。彼によれば一切の意識内容は思惟によって貫かれている。処が人々はヘーゲルのこの考え抜かれた思想を、往々浅墓な意味に於ける没論理主義[#「没論理主義」に傍点]として片づけるのである。
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少くとも意識[#「意識」に傍点]は、以上のように考えられるのでなければ、統一ある立体的な構造物として理解されることが出来ない。そしてこういう立体性を与えるものは、広義のそして又根本的な意味に於ける論理[#「論理」に傍点]だったのである。論理の方から云っても亦、少くとも以上のように考えられなければ、内容のない形式論理学[#「形式論理学」に傍点]の埒外へ一歩も出ることが出来ないだろう。――イデオロギーの心理学[#「心理学」に傍点]とは、だから外でもない、イデオロギーの論理学[#「論理学」に傍点]を中心として帰趨するものである。だが夫がもはや単に心理学に止まることが出来ずに論理学でなければならない理由は、寧ろこれから後に出て来る。それはこうである。
意識は――前に述べておいたように――存在に就ての意識でしかなかった、意識内容は存在の反映なのであった。処が存在の構造[#「存在の構造」に傍点]を吾々は、最も一般的に――先に述べたよりも更に一般的に――論理[#「論理」に傍点]と呼ばねばならない理由がある。それは今述べよう。仮にそうとすれば意識の統一・立体性を与えるものが論理でなければならないということは、実は極めて当然なことではなかったろうか。存在の――必然的な――構造としての論理が、意識の構成力としての論理となって、反映するに過ぎないのである。
では存在の必然的な構造が何故論理であるか。存在としての存在・存在それ自体・の構造は、それだ
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