は、云うだろう。なぜ一体そういうものを論理[#「論理」に傍点]と呼ぶことが出来るのか、なぜ又それを論理と呼ばねばならなくて他の名で呼んではならないか、と。併し、何故人々は論理学の教科書で教えるものだけを論理と考えねばならないのか。優れた芸術家に於ては、感覚(センス)――感情――はそれ自身の内部的な形成力によって必然的な一義的な作用連関の構造を張るのだし、政治的実践家の優れた者は、意志活動の無限な諸作用の内に、同じく一義的で必然的な連関を見出すのである。この連関が例えば数学的直観に於てのように一義的で必然的であるという事実は、理論的な諸作用の連関の場合と、少しも異るものではない。こうした構造形成力の必然性が吾々の謂う論理[#「論理」に傍点]である。――もし意識を知情意に三分するのが便宜だとすれば、単に知識ばかりではなく、感情や意志も亦それぞれの形態の論理[#「論理」に傍点]によって初めて感情や意志として機能することが出来る。ただ知識は、理論は、この論理を特に――概念的なものとして――自覚出来るが故に、特に特徴的に論理的・概念的だと考えられるに過ぎない。所謂[#「所謂」に傍点]論理――知識や思惟や理論に於ける論理――は、生きた本当の、而も日常吾々が夫を使って生きている、論理の特殊な一現象形態に外ならない。――論理とは外でもない意識の骨髄であり精髄なのである。
(論理は併し単に意識[#「意識」に傍点]の骨髄・精髄であるばかりではない、そうあることは実は更に根本的には、論理が存在の必然的な構造[#「存在の必然的な構造」に傍点]に外ならないことの一つの結果に過ぎないのである――後を見よ。)
実際、心ある心理学者乃至論理学者其他によって、論理と感情乃至意志との関係は、可なり重大な注意を払われている。T・リボーが論理の内に於ける感情の役割を見出した(『感情の論理』)ことや、G・タルドが論理の内の意欲の作用を指摘したこと(『社会的論理』)は、その代表的なものであるが、P・ラピーやT・リップスの仕事も見遁すことが出来ない*。H・ロッツェが元来情意の対象と考えられていた価値[#「価値」に傍点]を、論理的判断――論理的価値判断――の対象と見たことも今云った点から注意されねばならぬ。――かくて、これ等の人々によれば、ともかくも論理は単なる――理論的なものに限られた――論理ではなくて、感情
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