」に傍点]との独立という意識的又は無意識的な仮定は、心理学をも論理学をも、極めて滑稽な姿のものに導くだろう。心理学はもはや心理の論理的機能[#「論理的機能」に傍点]に対して全く手を下すことが出来なくなり、同時に又論理学は心理の[#「心理の」に傍点]論理的機能とは何も必然的関係のないものに就いて語らねばならなくなる。例えば形式論理学の教科書に於てのように、表象や観念や概念や範疇に就いて、その心理学的規定は全く無用なものとなって了うから、単に之を義務的に初めに掲げておいて、後から木に竹を継いだように之に、論理学的規定を付け加える外はなくなる。少くとも論理は意識・心理の一つの機能である、それは日常的な観念把握によれば明らかな事態である、処がこうした論理学と心理学とによれば、こういう常識的な大事な仮定が無視されて了う。論理学的なものは心理学的なものであってはならぬ、所謂論理主義はそう主張する、だが論理主義者が非難する心理主義者――その代表者は当然第一に多くの心理学者である――自身も亦、この主張を実は裏書きしている場合が多い。
意識は心理学的諸仮説――心的要素・感覚其他――とは独立に、一つの統一的[#「統一的」に傍点]な存在である。そうでなければそれは意識として存在出来ず、又意識としての資格を保つことが出来ない。人々は之をだから「意識の統一」、「意識の流れ」、「意識の志向作用」、等々として指摘するのを怠らないのである。意識は常に意味を持つ[#「意味を持つ」に傍点]処の、意味する[#「意味する」に傍点]処の、意識でしかない。意識はだから、云わば何か平面なようなものではなくて立体によって類推されるべきものだろう、例えば円錐とか波とかが之である。だが意識のこの立体性・統一性を成り立たせる構造[#「構造」に傍点]は何であるか。意識の要素的諸部分の間の相互関係にしか過ぎない処の所謂「意識の構造」が何かと云うのではない、意識が一個の意識統一[#「一個の意識統一」に傍点]としてなり立つ所以のものは何か。吾々は夫を、最も広範に、併し最も正当に、外でもない一般的に論理[#「論理」に傍点]と名づけるべきだと考える。意識の論理的機能によって初めて、意識は意識として、心理の機能を果すのである。
だがこういうと、論理と心理とを絶対的に区別しなければならないと仮定している処の、例の心理学者や論理学者
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