ーは存在から出発し、存在から分離し、或いは存在から分裂し、そして終局に於て又存在に一致するという、観念乃至意識の、必然的な運命を物語る[#「運命を物語る」に傍点]概念なのである。所謂「意識の問題」――諸形式の観念論・ブルジョア哲学の根本問題――は処が、こうした形の問題を提出することが出来ない、「イデオロギーの問題」が初めて意識の問題をば、解き得る公式にまで造り変えるのである。
[#改段]


[#1字下げ]第二章 イデオロギー論の課題[#「第二章 イデオロギー論の課題」は中見出し]



[#3字下げ]一[#「一」は小見出し]

 イデオロギーは、相対立する二つの規定を有っている。一方に於て夫は意識[#「意識」に傍点]であるが、他方意識は単に意識ではなくて一つの歴史的社会的存在[#「歴史的社会的存在」に傍点]でもなくてはならない。そこで吾々は仮に、イデオロギー論の二つの――対立する――課題として、イデオロギーの心理学[#「イデオロギーの心理学」に傍点](この言葉を可なり自由に用いるとして)と呼んでおいて好いものと、イデオロギーの社会学[#「イデオロギーの社会学」に傍点](この言葉も亦便宜上広めて使うことにして)と呼んでおいて好いものとを、対立させて見なければならない。但しここで心理学と云い社会学と云うのが、普通そう呼ばれているものから、どれ程異っていなければならないか、夫こそ今から見ようとする点なのである。
 普通、心理学者達は意識を論理学[#「論理学」に傍点]から独立に取り扱うことが出来ると考える。或いは逆に云えば論理学は意識の分析とは独立に成り立つと仮定している。無論論理学者自身も亦この仮定で満足しているのが多くの場合である。論理学は高々、意識を極めて一部分にしか過ぎない表象[#「表象」に傍点]、又は思考[#「思考」に傍点]、に関する心理学的考察と関係を有つに過ぎないかのように考えられる。もし論理学乃至論理と呼ばれるものが、かの形式論理――学校論理――の外へ出ないものならば、なる程このことは本当だろう。論理の形式だけが論理学にぞくする、論理の内容は、そして論理の内容はもはや論理ではなくもっと具体的な意識内容――感情とか意志とか――であるが、この意識内容は、心理学にぞくする、ということになりそうである。
 併しこういう仮定、心理[#「心理」に傍点]と論理[#「論理
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