Iロギーという言葉[#「言葉」に傍点]が一般的に適用していても、イデオロギーという問題[#「問題」に傍点]そのものはわが国のインテリゲンチャにとって、次第に意味を失って行くかも知れない。インテリゲンチャはその唯一の特有な社会的能力である処の彼等のインテリゲンツ(知能)を失って了う、イデオロギーなどという問題は彼等にとってどうでも好くなる。この問題は、自己満足的な低劣なジャーナリズム(ジャーナリズムは併し本来そういう低劣なものではないのだが)の欲するままに躍っては消える流行[#「流行」に傍点]に過ぎないと云うことにもなるだろう。
 イデオロギーの問題は少くともインテリゲンチャが進歩的である限り、常に支配的な問題に止まるだろう。又止まらねばならぬ。だが、インテリゲンチャの反動化――併しそれはインテリゲンチャのインテリゲンツ喪失・低能化・自己喪失と一つである――と共に、イデオロギーの問題も亦消滅すると考えたならば、夫は大きな誤りだと云わねばならぬ。否この問題はプチブル・インテリゲンチャなどの眼の前からは、出来るだけ早く消え失せて行くがいい。その時こそは、この問題が、[#傍点]大衆自身の本当のインテリゲンツ[#傍点終わり]の興味の対象となることの出来る時なのである。

 イデオロギーの問題は、或る意味に於ける観念[#「観念」に傍点]乃至意識[#「意識」に傍点]の問題である。で観念乃至意識が又或る意味に於ける根本問題の一つである限り、イデオロギーも亦――或る意味に於ける――一つの根本問題でなくてはならぬ。――だが「観念」乃至「意識」の問題とは抑々何であるか。
 一体近世[#「近世」に傍点]哲学の何よりもの特色は、それが色々の意味でではあるが結局「意識の問題」から出発するという点に横たわる。すでにデカルトは自己意識――我考う故に我在り――を哲学的省察方法の立脚地としたことは能く知られている。ライプニツやカントの問題が意識――表象者モナド・意識一般――であったことは云うまでもないが、最も意識の問題から遠いと考えられるスピノザさえが、実体概念の必要な一条件として、それ自身によって考えられ得る[#「考えられ得る」に傍点]という点をつけ加えるのを忘れない。フィヒテの純粋自我、シェリングの自由意志の省察、ヘーゲルの絶対精神等々、凡そ近世の、特にドイツ的精神の伝統にぞくする、哲学――実はド
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