Cツ観念論――では、総て意識がそれの問題であり、従って又その出発の地盤となっている。
 近代[#「近代」に傍点]哲学を代表するフッセルルの本質直観やベルグソンの直覚は、意識の構造又は実質をどうやったらば捉えることが出来るか、ということに答えている処の哲学的手段であるし、新カント学派の課題と雖も、結局はこうした意識の問題を解くための別な装置を見出すことに外ならなかった。
 だが意識の問題は無論決してデカルトなどから始まったのではない。ヘブライ思想とギリシア思想との結合者であった処の、併し結局ヘブライの宗教意識の神学的組織者であった処の、教父聖アウグスティヌスにまで、吾々はこの問題を溯らせることが出来るだろう。意識は、近世に於ける資本主義的な個人[#「個人」に傍点]の自覚によって初めて公然と哲学の日程に上ったのではあるが、それよりも前に、すでに人間の宗教的な内面性[#「人間の宗教的な内面性」に傍点]の観念と同伴して、哲学の問題にまで提出されていたのである。尤もそれが哲学に対する殆ど完全な支配権を得たのは近世以来のことであると云って好く、又同じ近世に於てもその支配する形態は様々であるが、――例えば表象として自覚として自我として理念として等々――、吾々はその終局の起源をヘブライ思想が哲学体系にまで組織化されたこの時期に求めねばならぬだろう。
 処で更に、これ等の意識の哲学が、観念[#「観念」に傍点]の哲学としてみずからを特色づけることによって、哲学史上の生存権を得ることが出来た、この点を注意せねばならぬ。そして観念の哲学――それは観念の問題[#「観念の問題」に傍点]から出発する――は、今云ったヘブライ思想に先立って、ギリシア思想の代表的な伝統の一つに外ならない。と云うのは、夫はプラトンの世界観によって後々の不抜な思想体系のための礎石として置かれたのである。聖アウグスティヌスも近世に於けるカント又ヘーゲルも、観念の問題から出発する観念の哲学としてである限り、全くプラトニズムの範に従って出来上った。之が哲学思想に於ける観念論[#「観念論」に傍点]に外ならない。
 かくて意識の問題から出発する従来の凡ゆる哲学は、それであるが故に又必然的に観念論に帰着する。――云い換えれば、従来、意識[#「意識」に傍点]の問題は常に、観念論によって、観念論的[#「観念論的」に傍点]に取り扱われるこ
前へ 次へ
全189ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング