轤黷ト行くだろう。」(McDougall, The Group Mind, p. ※[#ローマ数字17、212−上−17])
** この「集団心」は社会心[#「社会心」に傍点]と一般に呼ばれるものの代表者である。社会心の概念はマクドゥーガルの集団心の外にいくらでも数えることが出来るだろう。Espinas の conscience multiple、デュルケム及び 〔Le'vy−Bruhl〕 の 〔repre'sentation collective〕(之は後を見よ)、ルソーの 〔volonte' ge'ne'rale〕, 〔To:nnies〕 の Wesenwille, ヘーゲルの Volksgeist 等々(M. Ginsberg, The Psychology of Society, 1921 参照)。
[#ここで字下げ終わり]
 処でマクドゥーガルの集団心の概念は、その構成の過程に於て一つの無理を有っている。彼によれば社会的集団は一つの集合的精神生活[#「集合的精神生活」に傍点]を営むものであるが、これは、その社会に属する個人が単なる個人として営む精神生活の総和以上のものでなければならない。処で社会はマクドゥーガルによれば単にこの集合的な精神生活を営むばかりではなく、それ故に又一つの集合心[#「集合心」に傍点](collective mind, collective soul)を有つ[#「を有つ」に傍点]ものと考えられて好い、と云うのである。之が集団心の概念なのである。で問題は、社会が――個人がではない――有つ処の心という概念がどうして許せるかに存する。それは云うまでもなく個人の心で尽きない処の、超個人的な心[#「超個人的な心」に傍点]であるが、一体吾々はそういう「心」を考えることが出来るか。マキヴァーはこの点に就いて鋭い批判を加えている*。彼に従えば心の主体である個人の二人の間に生じる心的関係は決して二人の心を含む独立した「心」という性格を有つことは出来ない。もし仮に夫が心であるならば、二人に共通な一つの心は、例えば教会の有つ心の部分でなければならず、教会の有つ心は又国民の有つ心の一部分でなくてはなるまい。かくて多くの心と心が相互に喰い込むことが出来ることになる。処が心――個人の――の特色は銘々が独立の体系の主体であって相互に喰い入ることの出来ないものだという処に
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