は初めから階級対立によって特色づけられていたわけである。そこで、こうした下部構造の上に――直接に又間接に――立つ筈であった社会上部構造(イデオロギー・イデオロギー形態)は、階級性[#「階級性」に傍点]によって性格づけられざるを得ない。イデオロギーは今や実は階級イデオロギー――階級的世界観[#「階級的世界観」に傍点]・階級意識[#「階級意識」に傍点]である。イデオロギー諸形態の対立は、階級性による対立だったのである*。
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* 実際殆んど凡ての場合イデオロギーとは政治的な概念である。それは革命の意識[#「革命の意識」に傍点]と関係づけられて理解される場合が多い。
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 無論イデオロギーという概念を人々は勝手に都合の好いように規定することは出来る。例えば生物学的本能に動機されて一定形態の観念を持つ時、その観念はイデオロギーと呼ばれることも出来る[#「出来る」に傍点]。そういう可能性はそして無論決してそのものとして誤りではあり得ない、可能性とは誤りでないということの証拠であろう。だが誤っている点は、イデオロギーをこういう風に規定することが、全く部分的な見解でしかないということを知らない点である。イデオロギーの概念を統一的に組織的に把握するものは唯物史観の外にはないが、その唯物史観によれば、イデオロギーとは終局に於て階級イデオロギー[#「階級イデオロギー」に傍点]の外ではないのである。色々のイデオロギーがあるのではない、そしてその内の一つのものが階級[#「階級」に傍点]のイデオロギーなのではない、凡てのイデオロギーが階級イデオロギーに帰着[#「帰着」に傍点]しなければならない、と云うのである。
 階級は併し社会の全体ではない、それは社会の部分にすぎない(但し大事なことは夫が社会に於ける単なる部分ではなくて対立的な部分だということなのだが)、そうすれば階級イデオロギーは、即ち又イデオロギーは、社会全体を代表する観念ではなくてその一部分をしか代表しない観念となるだろう。一応そうである。でそうすればイデオロギーは決して社会全体に対して通用出来ないもので、夫は自分が代表する一つの階級にしか通用しない、ということになりそうである。それは階級の利害――併しそれは要するに個人主観[#「主観」に傍点]の利害である――に動機される
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