処の階級的偏見[#「偏見」に傍点]でしかない、夫は階級の主観性[#「主観性」に傍点]から来る虚偽意識[#「虚偽意識」に傍点]に外ならぬ、人々はよくそう云うのである。――だが無条件にそうなのではない、或る場合には、そうであるが、他の場合にはその正反対でさえある、ということを今注意しよう。
階級は社会の単なる部分ではなくて、対立的[#「対立的」に傍点]な部分である。二つの階級が並立していて、之を総括するものが社会だと考えてはならぬ(社会学者[#「社会学者」に傍点]はそういう風にしか考えないかも知れないが)。二つの階級が対立していて、この対立物の張り合いが――現在の――社会の内容をなしているのである。だから二つの階級を精々「公平」に較べて見ると、夫々が全体社会[#「全体社会」に傍点]を代表し又は夫にとって変ろうと欲している。二つの部分[#「部分」に傍点]が夫々全体[#「全体」に傍点]であることを要求する。ブルジョアジーは社会全体がブルジョア社会に止まることを欲するし、プロレタリアは社会全体がプロレタリアの独裁下に立つことを要求する、であればこそ初めて、二つの階級は対立[#「対立」に傍点]するのである。袋の中の二つの球は――仮に衝突したり摩擦し合ったりしても――まだそれだけでは対立してはいない、単に並存しているに過ぎない。
「公平」に観てもそうなのであるが、実在は決して道徳的俗物の欲するように公平ではない。存在は傾向[#「傾向」に傍点]を、運動方向[#「運動方向」に傍点]を、必然的な勢[#「必然的な勢」に傍点]を、有ってしか存在でない。で二つの階級の存在も亦決して「公平」に考えられてはならぬ。抑々社会の運動の必然的傾向・必然的方向を発見すること自身が、唯物史観の目的であった。そしてその為に階級[#「階級」に傍点]という範疇が必要となったのである。唯物史観は決して「公平」な理論ではない。――で、唯物史観によれば、階級社会はプロレタリアの階級が、ブルジョアジーの階級と対立することを通じて之を克服することによって、初めて真に社会としての社会に――階級なき社会に――まで進歩することが出来る。二つの階級の夫々の歴史的役割はだからすでに明らかではないか。
プロレタリアの階級は進歩的な階級である、と云うのは、この階級がブルジョアジーの階級に対して歴史的優位[#「歴史的優位」に傍点]を
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