コげ終わり]
夫々のイデオロギーはその立場からする夫々の「遠近法」を持っている、イデオロギーは凡てその意味に於て、相対的ではないにしても「相関的」(relationistisch)でなければならない、と考えられている。処で例えばコンミュニズムとファシズムとのように完全に相対立する遠近法を、彼は如何にして相関化すか。ここでも亦一つの特有な立場が必要であるだろうがそれは何か。それは労働者の立場でもなければ資本家の立場でもなく、又ファシストの立場でもない、そのどれでもなくて、恰もインテリゲンチャ[#「インテリゲンチャ」に傍点]の立場であると云うのである。イデオロギエンの間の是非の判決を与え得る特権を有つものこそ、この恵まれたるインテリゲンチャの任務だと云うのである。蓋しインテリゲンチャは「自由に浮動する中間物」であるから。而も更に喜ばしいことには、恐らく教育の普及によって、資本家はもとより労働者でもが、次第にインテリゲンチャの層に繰り入れられて行くことは明らかであるから、中間層は次第に膨張しつつ益々有力となって行くに相違ない。多分今にインテリゲンチャ独裁の日も来るのであろう。――だが併しこの秀でたるインテリゲンチャは如何にして例えばコンミュニズムとファシズムとの是非を判定するか。恐らく現実――この公平無私な現実――が歴史のこの時期に於て、人々――この公平無私なる人間性――に向って示しつつある「面貌」(Aspekt)に一致するような、そのような理想的な・「理想主義的」な・「解釈」に依ってであるだろう。処で事物の是非を判定[#「判定」に傍点]するには無論夫の解釈だけでは充分ではない、そこには恐らく何等か形而上学的[#「形而上学的」に傍点]な――措定的な――予想が必要であるように見える*。
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* 例えば P. Eppstein はマンハイムに従って云っている、妥当性の基準は論理範疇的な形式の内にはなくして、「形而上学的判定の明白感の内に求められねばならぬようである」と(Die Fragestellung nach der Wirklichkeit im historischen Materialismus, Archiv f. Sozialwissenschaft und Sozialpolitik, Bd. 60, 1928)。
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