三つの異った人格の類型、この三つの異った社会群――この三つのものの上に、宗教[#「宗教」に傍点]と形而上学[#「形而上学」に傍点]と実証科学[#「実証科学」に傍点]とが成り立つのに外ならない*。この三つの精神的勢力の歴史運動の形態も亦、本質的に相異っている、とそうシェーラーは云っている**。
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* 三種類の知識を次のようにも呼ぶことが出来る、――「救済の知識」(例えば釈尊の宗教)、「教養の知識」(例えば孔子やソクラテスの形而上学)、「労作(労働)の知識」(例えば科学者の科学)。
** 〔M. Scheler, U:ber die positivistische Geschichtsphilosophie des Wissens.〕 (Moralia,[#「Moralia,」は底本では「Moralia」] S. 31―33)
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知識はかくて、その凡ゆる規定に於て、その指導者の類型に於て、その淵源と方法とに於て、その運動の仕方に於て、その社会的な群集の仕方と社会に於ける機能に於て、そして最後に、階級・身分・職業に於て、凡そ三つに分類されねばならない*。宗教に於ける指導者は僧侶[#「僧侶」に傍点]、形而上学では賢者[#「賢者」に傍点]、科学では研究家[#「研究家」に傍点]。そして宗教は教会・宗派・信徒団に於て、形而上学は古代的な意味での学校に於て、科学は知識の共和国・アカデミーに於て、初めて存在することが出来る、と考えられる。科学の研究家[#「研究家」に傍点]はそして、哲人(賢者[#「賢者」に傍点])のようには、全体的な・終結した・体系[#「体系」に傍点]を与えようとは欲しない、彼はただ、科学という無限[#「無限」に傍点]の過程[#「過程」に傍点]を、どこかの一点で進行せしめれば好い**。科学は、その特定の内容が普遍史的発展の或る特定の一点に於てのみ通達され得るように、そういうように、「累積的な前進」をなす。形而上学は――そして宗教も亦――然るに、之に反して、夫々の条件に於て、一応の完成[#「完成」に傍点]をもつことが出来る、諸々の形而上学は、一定数の諸類型のどれかに帰属することによって、一応の完備を持つことが出来る、それが「範疇的構造」を以て働くことが出来る所以である***。そうシェーラーは考える。
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