こから結果する。思い切って社会学に階級性を認めることは、社会の歴史性[#「歴史性」に傍点]を合理的に理解[#「理解」に傍点]することであり、初めから社会学に階級性を拒んでかかることは之に反して、社会の歴史性を合理的に排斥[#「排斥」に傍点]することによって、却って合理的な一種の社会学を造り出すことである。後の方の手続きを選んだものが、就中、かの形式社会学[#「形式社会学」に傍点]であった。処が今日の所謂社会学[#「社会学」に傍点]は、この後の方の手続きを選ぶ点に於て、多少に拘らず、形式社会学に属する。それであればこそ、第一義的に見て大して存在理由のなさそうに見える形式社会学も相当な存在理由を見出すことが出来るのであった。丁度、総合社会学が存在し得られそうに見えながら、必ずしも[#「必ずしも」に傍点]存在し得るとは限らない、と反対に。
さて知識[#「知識」に傍点]の社会学――それは社会学の本来の領域でもあった――も亦従って、知識という社会的存在から歴史性=階級性を天引きすることによって、合理的となることが出来る。実際、予め知識からその歴史性――歴史的原理――を引き去っておけば、後は安心して自由に、恐らく天才的に、歴史的事実[#「事実」に傍点]を引例することも出来るだろう。マックス・シェーラーの知識社会学は、この要領を見逃さなかった最も代表的な場合である。
正にシェーラーは、コントの社会学から、その歴史的原理を完全に引き去るためにこそ、コントのかの歴史三段階説(尤も之はすでにサン・シモンにあるのであるが)を批難することから始める必要があった。それがミルやスペンサー等に関わると、マッハやアヴェナリウス等に関わるとを問わず、コントの実証主義に帰着する三段階説は、彼によれば「根本的に誤っている」のである。三つのこの段階は、科学発展の歴史的な順序に於ける段相を意味すべきではなくて、実は元来、人間精神の本質と共に与えられた三種類の永劫な精神態度と認識形式なのであるから、例えば一つのものが他のものに代って位置を占めたり、他のものの代理をつとめたりすることは出来ない。三つのものは、斉しく神話的な物の考え方から分化して来た、平行して同時に存在し得べき、類型[#「類型」に傍点]である。この三つの完全に異った動機、認識精神のこの三つの完全に異った群別と作用、この三つの異った目標、この
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