nである[#「ある」に傍点]ために、文化[#「文化」に傍点]社会学でなく[#「なく」に傍点]ならねばならぬ。文化社会学それ自身が、今やこうした中途半端な矛盾の過程なのである。
[#3字下げ]四[#「四」は小見出し]
併し、吾々は何も、文化社会学がフロイト主義的文化理論にまで帰着しなければならぬなどと云いたいのではない、無論決してそうではない。フロイト主義的文化理論は元来それ自身に重大な制限を有っているのだから、たとい夫が文化社会学の一つの制限[#「一つの制限」に傍点]を指摘し得た処で、決して夫の代用物などにはなれない(第六章を見よ)。文化社会学の以上の如き矛盾を解くには、文化社会学はイデオロギー論[#「イデオロギー論」に傍点]となる外に途を有たないのである。そしてそれは(マルクス主義的)イデオロギー論[#「イデオロギー論」に傍点]の外にはないのであった。文化はイデオロギーとして取り上げられねばならないのであった(第一部を見よ)。
所謂文化社会学――その本質が何であるかを吾々は今まで見て来たが――は併し、云うまでもなく、自らをイデオロギー論から峻別しようと欲する。現に、アルフレッド・ヴェーバーによる審美的象徴・詩的表現としての文化は、到底、経済的・階級的・基底の上に立つ上部構造[#「上部構造」に傍点]――イデオロギー――ではあり得る筈がなかったし、又マックス・シェーラーによる文化社会学は、彼によって経済史観とか実証主義とかと特色づけられるイデオロギー論に対しては、恰も文化が文明に優越するだけそれだけ、優越していなければならない筈であった。――でイデオロギー論という概念を元来承認せず、又そうでなくても之を自分のものから峻別しようとするに熱心な、多くの文化社会学者達が、自分の文化社会学がイデオロギー論に帰着せしめられようとするのを見て、頭から反対するのは誠に当然なことである、吾々は夫を非難する程野暮ではない。だがそれとは無関係に、文化社会学はイデオロギー論に帰着しない限り、文化社会学ですらあり得ない、ということは真理である。
そこで文化社会学をマルクス主義的イデオロギー論として取り上げたのは、エミール・レーデラーである。彼は――主として芸術を問題としながら――述べている、歴史に於ける文化[#「文化」に傍点]の層が仮にどれ程動的なものと考えられようとも、文化の運動
前へ
次へ
全189ページ中107ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング