フ動力は、終局に於ては、文化[#「文化」に傍点]自身に在るのではない、夫は却って社会的諸関係の総体[#「社会的諸関係の総体」に傍点]の内に横たわらねばならぬ、と。彼が今茲で社会的諸関係と呼ぶものは、マルクス自身の言葉に従えば、生産諸関係[#「生産諸関係」に傍点]のことなのである。が夫がレーデラーに従えば、単に経済的・技術的な意味に於てばかりでなくて、その社会的習俗[#「社会的習俗」に傍点]をも含めて解釈されねばならない、それは「人間の生活諸関係」に外ならない、というのである。で社会的諸関係の総体[#「社会的諸関係の総体」に傍点]は、彼に従えばすでに「精神的[#「精神的」に傍点]な態度」を含んでいなければならない。――即ち精神がすでに物質の内に装置されているわけである、だから、こういう下部構造が上部構造の一方的な――もはや交互的ではない――規定者となるということは、同語反覆的に当然でなければならないではないか。だがレーデラーの文化社会学=イデオロギー論によれば、精神の物質に対する権利はこれだけには止まらない。文化層の社会学的[#「社会学的」に傍点]考察は、文化発展の可能性とか根本概念とかという文化の内部的[#「内部的」に傍点]規定が予め明らかにされた上でなければ、成り立つことが出来ない。社会的なるものは例えば劇の芸術的価値の実現の可能性[#「価値の実現の可能性」に傍点]を規定出来るだけであって、劇の芸術的価値そのもの[#「価値そのもの」に傍点]を規定することは出来ない(G・ルカーチと同じに)。それは美学的[#「美学的」に傍点]考察の高々導線となることが出来るに過ぎないものだ、と彼は主張する。彼は云っている、イデオロギー[#「イデオロギー」に傍点]とは、文化の自律ということと社会的な全基底が文化のこの自律の材料[#「材料」に傍点]又は条件[#「条件」に傍点]として作用するだけだということとの、概念であると。だから彼によれば、イデオロギーとは、結局精神的なるものの自律に帰着する(そして之がマルクスに対する最も忠実な解釈だそうである)。もしイデオロギーがそういうものならば、なる程彼の云う通り、農民戦争や宗教改革に於ては、イデオロギーなどは無かったに相違ない*。
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* 〔E. Lederer, Aufgabe einer Kultur
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