ハ(ショーペンハウアー等を見よ)。そうすることによって初めて、ドイツ文化もドイツ文化として蘇生出来ようというわけである。之こそドイツ文化社会学のカトリック的使命ではないか。――であるから、シェーラーによる文化の譲歩[#「譲歩」に傍点]は、実は却って、文化[#「文化」に傍点]の文明に対する勝利[#「勝利」に傍点]を意味する。精神は、例えば全く東洋の生活術の通り、物質に譲歩することによって物質に打ち勝つ。で結局、シェーラーの文化社会学――その内容は結局知識[#「知識」に傍点]社会学なのだが――は、ヴェーバーの場合と同じに、文明に対する文化の優越を説く処の、その名の通り、文化社会学でなければならない。
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* Probleme, S. 39 ff. ――シェーラーが、文化と文明とを如何に峻別したか、即ち宗教・形而上学と実証的知識とを如何に峻別したか、それが又如何に、反実証主義的・歴史主義的方向に於てであったか、などに就いては第五章を見よ。なお第四回ドイツ社会学会(一九二四)に於て、Wissenschaft und soziale Struktur と題して行われたシェーラーの講演と、之に対するM・アードラーの批評とを見よ。
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 マックス・シェーラーの文化理論の何より著しい特色は、生物的生命の原理=衝動をば、敢えて文化の史的発展の基底に据えたという点にある。そこで人々はすぐ様、G・フロイトやA・アードラーの、精神分析理論を思い出さざるを得ないだろう。実際、精神分析の[#「精神分析の」に傍点]理論に従えば、一般に文化は、衝動――広義に於ける性衝動・又は権力への意志――を終局の原因とする。この点で、それはシェーラーの衝動理論と好く似ているようにも見える。
 だが、今は区別が大切である。衝動[#「衝動」に傍点]を阻止し又解放するものは、シェーラーにとっては、正に精神そのものであった。衰えたりと雖も精神はそこではとにかく、衝動に対立する独立[#「独立」に傍点]の原理となって登場する。処が精神分析によれば、精神それ自身が初めから衝動的[#「衝動的」に傍点]本質と考えられる。だからこの衝動即ち又精神を、阻止し解放するものは、もはや精神自身である筈がない。フロイト主義によれば夫が、社会[#「社会」に傍点]でなければならなかっ
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