髓i階、第三は経済が支配的である段階(之は無論量質的人口諸関係・権力諸関係・経済的生産諸関係・という社会学者風の三概念に対応している)。そして、第一の段階では、精神が衝動的な実在要因を阻止すること最も大(解放は従って最小)であり、第三の段階では之に反して、この阻止が最も小(解放は従って最大)である、というのである。即ち、謂わば民族主義的な時代には、精神的要因が歴史的要因として比較的有力であり、之に反して経済主義――もしそういうものがあるなら――的な時代には、夫が比較的弱い、というわけである。さてこの三段階の交替は処でシェーラーによって、何から説明されるか。外でもない衝動[#「衝動」に傍点]からなのである。この三つのものは――前に述べた――性欲・権勢欲・食欲の三つの根本衝動によって、初めて区別される外はない*。衝動が精神を決定するのであって、その逆ではない。
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
* 以上は Probleme, S. 9, 31 を見よ。
[#ここで字下げ終わり]
かくて結局シェーラーの文化社会学によれば、精神[#「精神」に傍点]は、即ち又文化[#「文化」に傍点]は、衝動[#「衝動」に傍点]の前に、譲歩[#「譲歩」に傍点]しなければならない。――アルフレッド・ヴェーバーの文化社会学にとって、あれ程審美的・唯美的・な本質であった処の高踏的な「精神」――文化――は、茲まで来ると、現実的な、あまりにも非唯美的な、衝動[#「衝動」に傍点]を背景に有たねばならぬこととなる。かしこに於て創造の力を有っていた精神――文化――は、茲では単に衝動に対する消極的な嚮導[#「嚮導」に傍点]だけをその役割として残される。文化・精神は、シェーラーによって、そのドイツ観念論的な王座からひき降ろされる。
だが、精神・文化は、このようにして譲歩[#「譲歩」に傍点]するのでなければ、もはや救済[#「救済」に傍点]され得ない。シェーラーによれば、ヨーロッパ文化だけが唯一の文化ではない、世界の文化は複数[#「複数」に傍点]なのだ、ヨーロッパ文化は東洋的――例えば印度・支那――文化と平均されることによって、却って現在の実証主義の圧迫から遁れることが出来る。――文化を文明[#「文明」に傍点]から護るためには(元来ドイツ的であった)文化を、東洋其他にまで、コスモポリタン化されねばなら
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