ゥ身[#「なること自身」に傍点]の、可能性も実現も、すべて実在的要因によって決まるのであって、かくて精神に残されるものは、わずかに、かかる文化内容が[#傍点]可能になること自身の可能性[#傍点終わり]の内から、或る要素を阻止[#「阻止」に傍点]し他の要素を解放[#「解放」に傍点]することによって、この可能性に動向を与え・嚮導し・浮きを与えるという、消極的な実現者の意味だけとなって了う**。――尤も実在的要因を一応無視した限りの純粋に文化的[#「純粋に文化的」に傍点]な、意味[#「意味」に傍点]内容(Sinngehalt)――併しそれは具体的な文化[#「文化」に傍点]内容(Kulturinhalt)ではない――に就いては、精神はなお積極的な役割を果すと考えられて好い。少数の[#傍点]択ばれた人々の自由意志[#傍点終わり]が、そこでは之を実現する積極的な要因とも考えられる。この点を考慮に入れれば、精神と衝動的なものとは、云って見れば互角ともなるだろう。衝動的な実在要因は、精神によってモディファイされるべき因果[#「因果」に傍点]であり、之に対応して精神的・文化的な要因は、衝動によってモディファイされるべき自由[#「自由」に傍点]であると考えられる***。
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* Probleme, S. 8―9.
** Probleme, S. 9―10.
*** Probleme, S. 9, 11, 37 ――なお、精神又は自由を、因果的自然必然性に対して、消極的な役割―― Lenkung, Leitung, Suspension 等――を果すものとして制限し、従って又その限り肯定しようとする彼の企ては、全くH・ドリーシュの生気説[#「生気説」に傍点]――ドリーシュの言葉によれば又目的論[#「目的論」に傍点]――の思想の複写である(第三章参照)。
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 そう考えれば精神は衝動に対して高々互角であるに過ぎない。だが実際は、人間社会の歴史的運動の要因として、依然として、精神は衝動の下位に立たねばならない結果になる。それはこうである。シェーラーによれば、歴史は時代々々によって、歴史決定の支配的[#「支配的」に傍点]な要因を異にする、夫は三つの段階に分かたれる。第一は性・血液・人種の関係が支配的である段階、第二は政治が支配的であ
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