T点]から云って、精神に先立つ。このことは併し、シェーラーに特有な現象学の方法に従えば、決して、単に静止的・超時間的な本質関係を意味するだけではない、衝動と精神との上下のこの階層関係は、社会の歴史的発展[#「発展」に傍点]に際しても亦行われるのでなければならない、この関係は亦発展[#「発展」に傍点]・前進[#「前進」に傍点]・法則[#「法則」に傍点]でもなければならない、と彼は主張する*。――実際、現象学的な所謂本質に、この意味に於て可変的[#「可変的」に傍点]な性質を与えるのでなければ、歴史的社会的存在の「現象学」的分析ほど、無意味なものは又とあるまい。
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
* Probleme, S. 12.
[#ここで字下げ終わり]
 精神は衝動の上部構造である、歴史的社会――それはシェーラーによれば要するに人間[#「人間」に傍点]生活である――の根本動力は、従来の有態で露骨な観念論の体系とは反対に、精神ではなくて却って生物的な衝動であった。精神は今やその限り少くとも衝動の前には譲歩しなければならない。
 そこで精神はシェーラーによって、極めて謙遜な役割を振り当てられることとなる。精神それ自身は、根本的には可能的な文化内容を実現[#「実現」に傍点]する力[#「力」に傍点]とか働き[#「働き」に傍点]とかいうべきものを少しも持っていない。それは単に文化内容の可能的な様態を予め[#「予め」に傍点]決定出来るだけである。精神は本来から云うと、文化内容の決定要因[#「決定要因」に傍点]ではあっても、決してまだその実現要因[#「実現要因」に傍点]ではない。この可能的な文化内容に選択[#「選択」に傍点]を施すことによって、之を実現に齎す処の要因――その意味に於ては消極的な[#「消極的な」に傍点]実現要因――は、精神自身ではなくて、却って実在的・な衝動による・生活諸関係なのである*。――原理的にすでにそうであるが、文化の実際の歴史的内容になると、即ち一定の実在的要因と一定の観念的要因とがすでに結合して与えられている文化の実際内容になると、之に対する精神の働きかけ方は、更に一層制限されて来る。こう云った文化内容が新しく可能的になる[#「可能的になる」に傍点]ためにも――前の場合よりも一段前である――もはや精神は無力である。この文化内容が可能的になること
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