焉u文化社会学」の主張を、例えばマルクス主義的文化理論乃至社会理論の成果と、直接に対決させて見ることは、可なり野暮なことだろう。吾々は別な途を択ぼう。
 ドイツ民族精神の哲学は、或る意味に於て、すでにヘーゲルを以て終っている。ヘーゲル以後ドイツ民族的「精神」の正面的な・体系的な・無条件な肯定の哲学[#「哲学」に傍点]――(今の場合の)社会学[#「社会学」に傍点]ではない――はもはや見ることが出来ない。その後に見られるものは高々、超歴史的な単に一般的な範疇として理解された限りの、イデーとか「文化」とか「精神」だけであると云って好いだろう。そしてヘーゲルの「精神」の哲学は、マルクスの「物質」の哲学――だがそれが「社会学」ではなかったことを忘れるな――によって代られた。処が物質の哲学はもはやすでに「哲学」ではない、でドイツ[#「ドイツ」に傍点]観念論哲学は或る意味に於て、ここに終ったのである。
 ドイツ民族は、即ち又ドイツ国家は、過去数十年来あれ程目醒しく台頭して来たにも拘らず、今日ではすでに、全く行きづまって了った。大戦後のドイツは、例えばナポレオンに征服されたドイツ――そこにはヘーゲルが生きていた――とは、全くその発展の切線方向を異にしているのを見ねばならぬ。かしこにはドイツ新興資本主義の隆々たる前途があり、ここにはその垂直的な下向線がある。今や、問題はドイツ[#「ドイツ」に傍点]の没落[#「没落」に傍点]と救済[#「救済」に傍点]とでしかない。救済主はアメリカであるかソヴェートであるか、それともヒトラーであるか。これは経済的・政治的な問題である。――だがドイツ民族的「精神」は、ドイツ的「文化」は、又この問題と平行しないではいない。ドイツ的精神・文化も亦今や没落[#「没落」に傍点]に瀕している。それは救済[#「救済」に傍点]されねばならない。だがドイツ精神・ドイツ文化はヨーロッパ(及びアメリカ)精神・文化の、代表者でなければならなかった。だから問題は、ヨーロッパ(及びアメリカ)精神・文化の没落と救済との問題である。――恰も、債務者ドイツの救済は英米仏の又ドイツそのものの資本主義自身の救済であるように。
 そこでわが文化社会学はどうなるか、文化[#「文化」に傍点]社会学は同語反覆的に、文化の[#「文化の」に傍点]――即ち又精神[#「精神」に傍点]の――没落[#「没落」に
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