ノ傍点]を求めることは許されない(彼は之をその集団主義的[#「集団主義的」に傍点]見地からの結論だと考える)。個人主義的見地に立つマックス・ヴェーバーが指摘したような社会科学の客観性[#「客観性」に傍点]――客観的可能性[#「客観的可能性」に傍点]や評価からの超越[#「評価からの超越」に傍点]など――は、あまりにも合理主義的でありすぎた、というのである。文化社会学の理論が、如何に非実践的・観想的なものに甘んじるかは、この点からも明らかだろう**。――併し解釈学的なものは本来常にこうある外はない。
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* ヴェーバーの文化社会学は併し、汎歴史主義[#「汎歴史主義」に傍点]に反対する、歴史は常に永遠なるものによって裏づけられている。その限り之は単なる歴史主義――相対主義――ではないかのようにも見える。だがそれが理論自身の客観性の問題になると、完全に相対主義=歴史主義を暴露する(次を見よ)。そうして文化社会学が結局、所謂歴史主義の一つの変容に過ぎなかったことを証拠立てる(Ideen, S. 49 参照)。
** Ideen, S. 20―25 を見よ。
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 最後に吾々は云うことが出来る、ヴェーバーの文化社会学[#「文化社会学」に傍点]、それは恐らく、ドイツ乃至其他の所謂「文化社会学」を最もよく代表するものであるが、夫は、ドイツの[#「ドイツの」に傍点]形而上学的・宗教的・観念論[#「観念論」に傍点]の、解釈学的[#「解釈学的」に傍点]な――ロマン主義的・歴史主義的な――合理化の一つの形式である、と。そこで取り扱われた文化の概念は、外でもない、ドイツ民族精神[#「ドイツ民族精神」に傍点]の概念によって貫かれている。
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* だからヴェーバーは当然、自然主義的・唯物論的・歴史観を呪わざるを得ない。彼はE・トレルチの、精神と自然との――公平な――二元論にさえ反対する。唯物史観に於ける社会の上部構造[#「上部構造」に傍点]などという範疇は――この言葉はM・シェーラーさえが使っているが(後を見よ)――文化社会学の傍あたりへさえ寄ってはならない(Ideen, S. 27―8)。
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[#3字下げ]三[#「三」は小見出し]

 さてこうした性格を固有している所
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