烽フとして、そのまま受容することが、この方法の本来の願望である。まして表現に就いては、之を説明するという言葉自身が無意味だろう。表現は理解[#「理解」に傍点]される外はない。表現の唯一の認識範疇は理解である、そして理解されたもの同志の連関を理解することが解釈[#「解釈」に傍点]である。文化は、それが精神の表現である限り、理解される外に、通路は持たない**。文化社会学が解釈学的である所以が之である。
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* Prinzipielles, S. 43; Ideen, S. 51 参照。
** Ideen, S. 14 参照。
[#ここで字下げ終わり]
かくて、文化社会学の根本的な特色は、その観想的[#「観想的」に傍点]な性格に帰着する。なる程この文化社会学は、先天的と考えられたような所謂文化哲学乃至歴史哲学ではなかった、それは社会という現実の存在にその足場を求める、即ち又歴史そのものの内部にまで足を踏み立てねばならなかった。だからヴェーバーはこの科学を現在の問題[#「現在の問題」に傍点]から出発せしめる。だからそれは時代々々の、又は之を代表する人々の、観点[#「観点」に傍点]に制約されるという本質を有っている。文化社会学は単なる純粋認識[#「純粋認識」に傍点]や純粋理論ではない。それだけ之は実践的なものに制約されていなければならないように見える。文化の創造は、現在的[#「現在的」に傍点]・実践的[#「実践的」に傍点]・な精神的行為と考えられる。――だがこうした現在観とそれに伴う限りの実践的見地も、単に、殆んど凡ての歴史主義[#「歴史主義」に傍点]が得意とする処のものに過ぎない*。そういう実践的見地がなお非実践的・観想的であり得或いは寧ろ常にそうである外はないということ、それを今日人々は、多くの例で見ることが出来る。ここで認識乃至理論を決定するものは解釈に外ならなかったが、処が、この認識乃至理論を、真に実践的な――物質的な――実践につきあてて見るのでない限り、解釈は実際自由に何とでも付くものである。従ってそこには結局何の客観性[#「客観性」に傍点]も成り立つことが出来ない筈である。先に観点と呼んだものは、実は客観性のこの否定に外ならなかった。ヴェーバーによれば文化社会学にとっては、根本材料を外にして、正確な論証[#「正確な論証」
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