ereyer, Soziologie als Wirklichkeitswissenschaft, S. 21 ff.)。
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彼によれば文化――そして之は間接にはその対立物である文明をも部分として含まねばならなかったが(初めを見よ)――は、精神[#「精神」に傍点]の、社会に於ける表現[#「表現」に傍点]である。夫は人間の生活結合と之に応じる態度との表現であり、心的本質[#「心的本質」に傍点]の心的表現[#「心的表現」に傍点]なのである。精神はこの表現を通して、文化的面貌[#「文化的面貌」に傍点]・文化的骨相[#「骨相」に傍点]を示す。そこには歴史的・社会的 Konstellation が与えられる*。――だが読者は注意しなければならない、表現という概念が本来芸術=詩にプロパーなものであったという点を。審美的象徴こそ表現のプロパーな特色ではないか。そうすれば表現がすぐ様、第一に個性的・個体性格的・な表現を意味せねばならぬことは至極尤もだろう。――で精神のこの表現である文化は、おのずから個性的・個体性格的なものと考えられるのも当然である。実際ヴェーバーによればそれは一回的な完了物であった。だからそこで普遍化的・合理化的・な因果づけや進歩観が支配的であり得なかったのは初めから当然である。従って又文化は高々類型化される外に途を有たなかったのである(前を見よ)。
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* Prinzipielles, S. 29, Ideen, S. 10―12, 15, 27―28 を見よ。
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表現は――この概念の性格から云って――常に類型的でしかない。で文化は、文化社会学によれば、形態学的[#「形態学的」に傍点]に取り扱われる外はなくなる。文化社会学は「文化形態学」となる。ヴェーバーはこの科学をゲーテが行なおうとした自然の形態学[#「自然の形態学」に傍点]の仕事に較べている、それは文明進化論などに較べれば一つの新しい科学[#「新しい科学」に傍点]である、と彼は宣言するのである*。――形態学的見方は、類型化的方法は、併し、凡そ事物を説明[#「説明」に傍点]することは出来ないし、又それを企ててはならない。与えられた与件を他の与件にまで分解して了う――因果的説明はそうである――代りに、与えられた全体をその
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