ノ傍点]であったと云うまでである。――フランス(又アメリカ)社会学は、「文明」の社会学である。コントは実証的科学の発達が人類の進歩だと考えた。フランス歴史哲学乃至社会学は「進歩」の理論である。之に反してドイツの歴史哲学は「展開」の理論であるか(ヘーゲル)、或いは展開の理論でさえなくて「類型」の理論にすら帰着する(ディルタイ)。ドイツの社会学は――文明に対立させれば――「文化」の社会学なのである。
さてこの特色は、ドイツに於ては、形式社会学に対立した例の有力な社会学――H・フライアーによれば「現実科学としての社会学」――を、この形式社会学に対立させても亦特色づける。で結果として、ドイツに於て形式社会学に対立するものは、従って又今日当然にも形式社会学の批判者として現われるものは、一般に、文化社会学的[#「文化社会学的」に傍点]な特色を持って来なければならないわけである。――だからマンハイムが現代を社会学化の時代だと考えたことは、実は、現代が文化社会学化[#「文化社会学化」に傍点]の時代だということを意味するに外ならない。このことは、ドイツ独特な歴史哲学[#「歴史哲学」に傍点]――之はドイツ観念論[#「観念論」に傍点]の優れた伝統にぞくする(ヘーゲルを見よ)――を離れては、今の場合、そして就中一種の歴史主義[#「歴史主義」に傍点]から離れては、全く理解出来ない。
無論、社会学が文化社会学的だと云っても、凡ての社会学が「文化社会学」だと云うのではない。云う迄もなく文化社会学なるものは社会学の単に一部分に過ぎない。併しそれにも拘らず、今や、文化社会学[#「文化社会学」に傍点]が社会学全体の中で占める指導的で代表的な位置は、おのずから決って来る。――文化社会学は(ドイツに於ける)社会学の最も中心的な課題であり又最も尖鋭な形態である、夫がやがて(又してもドイツに於ける)社会学全体の今後の運命を担う者でなければならない、ように見える。――之が(ドイツ)社会学の趨勢[#「趨勢」に傍点]であり、之が文化社会学の現代に於ける意義であるように見える(所謂知識社会学[#「知識社会学」に傍点]――夫は文化社会学の更に部分であり又は伴侶である――が今日流行する理由は、一つにはここにあるのである*)。
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* 知識社会学が何ものであり、又何故造り出された
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