ス所謂理論と実践との統一は実際、そうでなければ得られなかっただろう*。
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* 以上の点に就いては拙稿「唯物史観とマルクス主義社会学」(岩波講座『教育科学』【前出】)参照。
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社会科学の論理学的[#「論理学的」に傍点]――即ち又歴史的[#「歴史的」に傍点]――イデオロギー性=階級性はこうであるとして、なお外にその社会学的[#「社会学的」に傍点]なイデオロギー性=階級性を見忘れてはならない。数学や自然科学に較べてイデオロギー性の著しかったこの科学は、それだけジャーナリスティックな特色を持っている。ジャーナリズムとは吾々によればイデオロギーの一契機乃至一形態であった。でそうすればそれだけ又、ここではジャーナリズムとアカデミズムとの対立が著しくなって来なければならないわけである。
アカデミー乃至大学に於ける今日の社会科学は、云うまでもなく主としてアカデミズムの契機と形態とに相当する。そして夫が同時に殆んど凡てブルジョア・イデオロギーの上に立つブルジョア社会科学であることを今は注意しなければならぬ。実際、ブルジョアジーが自己の階級の経済的・政治的・社会的・文化的・利害をイデオロギーによって擁護するには、ブルジョア国家の手に成り又は統制に服する大学やアカデミー程手近かなものは又とあるまい。現代の大学は国家の恐らく最も有効なイデオロギー的機関であろう。大学は科学的権威を有っている、これを政治的権威にまで兌換しさえすれば好い。
今日のジャーナリズムの波の上に乗っている社会科学は併しもっと複雑である。そこでは、プロレタリア・ジャーナリズムとブルジョア・ジャーナリズムとが対立する通り、マルクス主義的社会科学と、ブルジョア社会科学とが、対峙している。そして資本主義的経済機構の行きづまり、従って又ブルジョア・デモクラシーの行きづまりと共に、ブルジョア社会科学はその従来の超階級的自由主義の仮面をぬぎすてて、露骨に資本主義の擁護者として現われて来なければならなかった、それはやがてファシスト乃至社会ファシスト社会科学となって、ブルジョア・ジャーナリズムを席巻し始めつつあるように見える。
かくて今日プロレタリア・ジャーナリズム――夫は実は大衆化[#「大衆化」に傍点]と呼ばれるべきであった――の上に立っているプロレタリア的・
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