ス処である――の一部分に相当する。この均衡理論が社会を如何に機械論的[#「機械論的」に傍点]に取り扱うか、従って如何にそれだけ非弁証法的・形式論理的に夫を取り扱わねばならぬかさえ見れば、ブルジョア経済学[#「ブルジョア経済学」に傍点]のこの精鋭が何であるかが判る。――之は唯物史観(歴史的唯物論)に対立する・弁証法に対立する、観念論の形式主義の・最も近代的な適用物に外ならない。
 社会や又国家がこうした対立する二つの問題提出の形態[#「問題提出の形態」に傍点]によって、階級的に把握し分けられるばかりではなく、マルクス主義的社会科学とブルジョア社会科学とでは、抑々発端の問題それ自身をさえ別にしていると云って好い。と云うのは、前者の理論が社会[#「社会」に傍点]を問題にして出発するに反して、後者は実は社会ではなくて個人[#「個人」に傍点]の問題を出発点とするのである。だから前者は社会を社会的存在として、即ち客観主義[#「客観主義」に傍点]的見地から取り上げるに反して、後者は社会を結局個人に帰着せしめることによって、即ち主観主義[#「主観主義」に傍点]的見地から、取り上げる。例えば前者によれば経済社会は商品の集積[#「商品の集積」に傍点]として規定し始められるが、後者によれば夫は人間性[#「人間性」に傍点]や欲望[#「欲望」に傍点]から規定し起こされる。――後者は個人主義[#「個人主義」に傍点]的社会科学であり、前者は之に反して社会主義[#「社会主義」に傍点]的社会科学である。そしてこの区別は外でもない、観念論と唯物論との哲学イデオロギー上の対立に対応するのであった。なぜなら吾々は、観念論の問題が結局個人[#「個人」に傍点]の――意識の――問題である所以を初めに指摘しておいたのだから。
 今マルクス主義社会科学が社会主義的だと云った通り、この社会科学は自分のイデオロギー性=階級性を最も能く自覚[#「自覚」に傍点]していることをその特色とする(ブルジョア社会科学は併し、之を自覚乃至告白することを決して肯んじないのである)。而も之は単にその理論家の主観的な意識に於て自覚されていると云うだけではなくて、理論それ自身の内に之がその規定となって織り出されているのである。マルクス主義社会科学は特に――一般にマルクス主義はそうなのだが――その階級性=イデオロギー性を著しくする。最初に述べ
前へ 次へ
全189ページ中80ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング