R史的発展の結果[#「自然史的発展の結果」に傍点]である。生命はそうした結果の一つの外ではない。だから生命現象はその内部規定として、自然が生命にまで発展して来た自然史的過程を、そのモメントとして持っている。物理的化学的構造はそうしたモメントの一つだったのである。生命現象の有つ固有法則性は、生命に至るまでの自然の時間的蓄積に相当する。この歴史的経歴を抜きにして、直接に単なる物理的・化学的原理だけ[#「だけ」に傍点]で説明しようとしても、それが無理だということは、だから極めて当然ではないか。――でこう云う意味で、生命は、少くとも機械論的にでなく、又機械論的な生気説によってでなく、正に弁証法によって把握される外に道を残さない。新物理学の進歩と並行するためにも、生物学はこの途を取らざるを得ないのである。
自然史的発展のこの弁証法的な理解は、種の起源[#「種の起源」に傍点]に就いて云えば取りも直さず進化論[#「進化論」に傍点]の思想となって現われる。反対に云えば、進化論の本質――それは自然史の弁証法的認識である――は当然に、生命のこうした弁証法的な理解にまで導く筈だったのである。――吾々は物理学に於ける不決定論[#「不決定論」に傍点]の問題と、生命に関する生気説[#「生気説」に傍点]の問題と、更に種の起源に関する進化論[#「進化論」に傍点]の問題とが、期せずして、(唯物)弁証法というイデオロギー性格によって、一貫して連絡を与えられたことを、注意しなければならない*。
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* 以上の点に就いては拙稿「生物学論」(岩波講座『生物学』【本全集第三巻所収】に多少詳しい。
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生物学のイデオロギー性は併し、数学や物理学の場合に較べて、より広範な作用を有っている。外でもない、生命はやがて社会にまで自然史的発展を有つべきものなので、ここでは社会との接触が甚だ屡々問題とならねばならないからである。例えば人々は生物学に於ける専門的知識を利用して社会問題や人生の問題を解こうと試みる。すでに進化論は、そうした社会認識の方法としても亦、一つの有力なイデオロギー・「思想」であった。このことは進化論がアメリカの教会あたりから敵視されているとか、又わが国では却って生物学者にキリスト教徒が多いとかいう、極めて卑近な例から知り得るばかりではな
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