、すれば新生気説と雖も、この形態の下では矢張り一種の――精妙な――旧生気説にしか過ぎないだろう。だからドリーシュの新生気説は生気説と機械論とのかの二律背反を解くことは出来ない。ドリーシュの可なりに精緻なその生気説乃至目的論が、あまり科学的信用を博さないのは、恐らくこの幻滅に由来しているのではないだろうか。
問題の困難は併しながら機械論的因果律[#「機械論的因果律」に傍点]の概念自身の内に横たわっている。と云うのは、機械論者によっても新旧生気論者によっても、因果律は機械論的[#「機械論的」に傍点]にしか把握されておらず、そう把握した因果律を仮定して問題が堂々巡りをしていたのである。処が、すでに所謂「近代物理学」に於て見たように、元来因果律そのものが機械論的に理解されることはもはや今日では許されなくなっているのである。機械論的に把握された必然性[#「必然性」に傍点]に対する同じく機械論的に把握された偶然性[#「偶然性」に傍点]、そういう偶然性の概念を固執する限り、如何なる目的論――生気説――も機械論の困難を救うことの出来ないのは当然である。――因果は弁証法的[#「弁証法的」に傍点]に理解されねばならなかった、従って又偶然性・目的論・生気説も、弁証法的に理解されるのでなければならぬ。
そこで弁証法的方法によれば、無機的物質と生命との間には連続的[#「連続的」に傍点]な推移があるにも拘らず、段階的な質的相違[#「段階的な質的相違」に傍点]が横たわることが見のがされない。生命現象は一種の物質現象であり、従って物質現象に行われる諸法則――物理的・化学的・法則――が無論之を支配しなければならないが、そうであるからと云って、この種の法則だけ[#「だけ」に傍点]で生命現象が説明されるとしたら、それは全く機械的な公式的な願望でしかあるまい。生命には生命に固有な質的特色を有った法則――それが生気説によって目的論とか何とか呼ばれた――がなくてはならない。一応こう考えれば、所謂機械論と所謂生気説とのかの二律背反は解ける筈である。
だが、自然に、単なる物質現象と生命現象という、諸段階があるということに注意することは、まだそれだけでは弁証法的思惟にはならない。必要なものは、何故自然にそうした段階が存在するかの説明である。そしてこの説明を与えるものこそ(唯物)弁証法に外ならない。自然とは自
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