ネければならなかったのは、だから当然なことなのであった。それ故こうした個々事象を結合するような機械的な必然性[#「機械的な必然性」に傍点]――決定性――は実はどこにもあり得ない。
 本当の必然性は、それ自身偶然性との弁証法的な統一の下に、初めて必然性であることが出来る。存在は単純に必然的であったり、単純に偶然的であったりするのではない、必然性と偶然性との節度ある結合の下に置かれているのである。――存在は本質[#「本質」に傍点]と現象形態[#「現象形態」に傍点]とを以て初めて存在する、本質は現象形態を縫って、現象形態を通じて、自らを一貫する。処でこの本質は存在に於ける必然的なるものであり、之に反して現象はこの[#傍点]必然的なるものの偶然的なるもの[#傍点終わり]の外ではない。こうして正当に理解されたものが必然性の弁証法的概念である。ここでは因果の概念も亦弁証法的に理解されねばならぬ。決定論はここでは機械的決定論ではなくて正に弁証法的決定論[#「弁証法的決定論」に傍点]でなければならぬ。
 こう考えて来ると、この弁証法的決定論がかの所謂「決定論」――機械的決定論――と不決定論との和解すべからざる矛盾を解くものとして現われることは、すでに明らかだろう。――困難を解くものは、要するにここでも亦弁証法でなければならないことが判る。
 現代物理学はその問題の客観的な進歩にも拘らず、ブルジョア哲学の諸範疇――機械論・又形而上学――を棄てることが出来ないばかりに、その根本概念――因果的必然性――を困難に陥れて了っている、それを救うものは今やマルクス主義哲学の諸範疇――弁証法――の外にはないだろう。吾々はそういう結論に到着する。――でここまで来れば、物理学に於けるイデオロギー性の内容は、もはや疑う余地があるまい*。
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* 以上の点に就いての多少細かい説明を拙稿「自然科学とイデオロギー」(『知識社会学』――同文館)【本全集第三巻所収】で与えた。
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 物理学に於ける決定論と不決定論との対立に比較すべきものは、生物学[#「生物学」に傍点]に於ける「機械論」と「生気説」との対立である。――前者における無機的物質現象の代りに、ここでは生命[#「生命」に傍点]の現象を置き替えれば好い。そうすれば不決定論はやがて生気説に相当する
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