fィンガーの不決定論に対して、M・プランクは依然として決定論を支持する。プランクはこう主張する、なる程感性の世界に於ては事件の予見はいつも一定の不精確さを脱することは出来ないが、物理学的世界像に於ては一切の事件が一定の与えられた法則に従って因果的に厳密に決定されている、で所謂不決定性は感性界の事件を物理的世界像へ移行する際の不精確に帰着するのだ、と。その実在論的傾向にも拘らずカントを通して或る意味のマッハ主義者に止まっているプランク――但しマッハは彼の有名な論敵ではあるが――は、かくてかの不決定性を結局単に人間の主観性(擬人化)に帰着せしめる。之は前に述べた処に従えば、不決定論者に対する充分な解答ではあり得ない。だから彼はその固持しようとする因果律を高々一種の発見的原理[#「発見的原理」に傍点]に過ぎないものにまで譲歩させる。因果律は彼によれば真理でも嘘でもないのである*。
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* M. Planck, Der Kausalbegriff in der Physik, 1932, S. 11, 26.
[#ここで字下げ終わり]
さて、決定論も不決定論も、因果乃至必然性の概念を機械論的[#「機械論的」に傍点]にしか理解していない、そして之を固持したり排斥したりしようとするのである。決定論とは機械論的[#「機械論的」に傍点]決定論であり、不決定論はこの機械論的決定論の否定でしかない。――と云うのは、両者は、一旦バラバラに他から切り離されて孤立した個々[#「孤立した個々」に傍点]の事象、を仮定しているのであって、決定論が之を機械的な因果必然性によって機械的に結び付けることが出来ると主張するに反して、不決定論はかかる機械的結合を拒もうとするのである。いずれの場合にも、必然性[#「必然性」に傍点]――因果――と偶然性[#「偶然性」に傍点]とが機械的に、動かすべからざる固定的な区画によって、対立せしめられている。
だが実際には、他から孤立した、その意味に於て絶体固定化された個々の事象などはないのであって、如何なる個々の事象であっても常に他の事象との連関――交互作用や対立――に於てしか存在せず、又そういう連関に於てしか把握されない。その意味に於ては一つ一つの個々事象というようなものは実はないのである。量子論が一切の事象を大量現象として見
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