Dいだろう。実際、弁証法とは形式的に云えばエレア主義とヘラクレイトス主義との弁証法的な統一なのである。
(形式論理に対する懐疑を有つ点では直観主義は一応形式主義に優っている。だが、数学的存在を主観的な[#「主観的な」に傍点]「直観」によって規定しようとした点では、直観主義は、云わば客観的[#「客観的」に傍点]な存在のモデルにも相当するだろう符号――シンボル――を数学的存在だと考える形式主義に、遠く及ばないもののようである。)
さてここまで突きつめて来ると、数学的範疇――数学的世界観・存在論・論理――のイデオロギー性は明らかだろう。弁証法的論理学を(そして夫は唯物弁証法のことでなければならない筈であった――前を見よ)、採用するかしないかは、数学の歴史的前進にとって致命的な問題なのである。処が弁証法(唯物弁証法)的論理は、正にマルクス主義的論理学であった。之を採用するかしないかは、だから単に数学の歴史的前進だけの、又数学だけの、問題なのではない、夫は一切の範疇と連帯関係を持ち、従って又一定の社会的定位を持つ処の、問題なのである。それが数学のイデオロギー性に外ならない。
(数学に於ては、物理学や化学に於けると同じく、例えば哲学や社会科学又更に文芸や宗教などとは異って、「イデオロギーの社会学」――ジャーナリズム・アカデミズム・機構――はあまり問題にならないから之を省こう。)
自然科学[#「自然科学」に傍点]に於けるイデオロギーに就いて。――今世紀の初頭から、時間や空間、物質やエネルギー、に関する概念を次第に訂正しなければならなかった物理学[#「物理学」に傍点]は、この七八年来、遂に因果律に対する疑問にまで到着した。処が因果律の問題は、古来、自由乃至自由意志の問題と切っても切れない縁故があるという点からだけ云っても、物理学にとっては之程公共的な問題はないと共に、又之ほど致命的な問題はない。物理学に於けるイデオロギー性は、現在、この問題に連関して、そして物理学者の哲学イデオロギーを通じて、鮮かに明るみへ暴露されつつある。
何時の時代を取って見ても、物理学の世界では――尤も何処でもそうだが――様々な異説が対立していた。例えば光の粒子説や波動説、熱に関する熱素説や熱量説、等々。だがそう云った諸説の対立は云わば物理学の内部だけの問題であって、必ずしも直ぐ様外部との交渉に影響し
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