ノ反して直観主義は、数学的存在の論理的[#「論理的」に傍点]な概念が仮定する固定的存在[#「固定的存在」に傍点]の思想を斥けて、数学的根本直観[#「根本直観」に傍点]によって数を自由な生成[#「自由な生成」に傍点]として把捉し、そうやってかの論理的[#「論理的」に傍点]困難を解こうと試みる。だがその結果、直観主義は、形式論理の法則を悉くは承認出来なくなる、排中律の如きは破棄されねばならなくなるのである。
エレア主義[#「エレア主義」に傍点]とヘラクレイトス主義[#「ヘラクレイトス主義」に傍点]とにまで還元出来るだろう数学に於けるこの二つの世界観[#「世界観」に傍点]乃至存在論[#「存在論」に傍点]は、だから実は直ちに論理学上[#「論理学上」に傍点]の対立を意味している。形式論理学は、その一切の論理的意味内容を棄て去ることによって辛うじて形式論理学に踏み止まるか(形式主義――論理計算)、それでなければ形式論理学的法則の一部を棄て去らねばならぬ(直観主義)。数学は形式論理をあくまで固執するか、それでなければ先々のあてもなくこの形式論理の一部分を棄てねばならない。数学は云わば論理学的危機[#「論理学的危機」に傍点]に立っているのである。
この危機は併し元来例の二律背反乃至逆説の処理の仕方から結果したものに他ならなかった。この二律背反乃至逆説の論理的意味を検討し直すことによって、この危機を切り抜ける方針は見出されるべきだ。――処で二律背反なるものは、論理が論理以外のものを取り入れようとする関係を論理自身の側から名づけたものに外ならない。と云うのは、それは外でもない、弁証法[#「弁証法」に傍点]を形式論理の側から局部的に名づけたものなのである(だからカントに於ても二律背反はその「弁証法」にぞくしている)。弁証法の本質は形式論理の側から見ると単なる矛盾[#「矛盾」に傍点]としか写らないが、二律背反とは遂に解くべからざる一種の矛盾ではなかったか。
文学的反省に於て逆説やアイロニーが弁証法的本質として一般的に捉えられていないのを常とするように、今の数学的認識に於ても、この二律背反が充分に弁証法的なものとして自覚されていなかった。そこから、かの数学の危機が発生して来たのである。数学の危機を解くには、少くとも、数学の認識に於ける形式論理学の仮定をすてて、弁証法的論理学を採用すれば
前へ
次へ
全189ページ中64ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング