\存在論―論理学。
 実践的世界観は唯物論的存在論を決定し、之に反して観想的世界観は観念論的存在論を決定した。では唯物論的存在論と観念論的存在論とは夫々如何なる論理学を決定するか。前者は(唯物)弁証法的論理[#「弁証法的論理」に傍点]を、後者は形式的論理[#「形式的論理」に傍点]を決定するだろう。
 唯物論的存在論によれば、存在は物質[#「物質」に傍点]――之は物理学でいう物質の範疇とは別である――である。と云うのは、存在は終局に於て観念――人々は之を主観とか意識とか自我とか名づける――から独立に存在する、従って又観念の力を借りることなくみずから運動する、と考えられる。だからここでは観念はいつも自分の外に横たわって運動している存在を捉えなければ[#「捉えなければ」は底本では「促えなければ」]ならない。処で論理とは観念が存在を捉える[#「捉える」は底本では「促える」]ための観念形式なのだから、この場合の論理は単に論理としての論理――論理・観念の自己同一性[#「自己同一性」に傍点]――に立脚することに止まることは出来ずに、論理外のものの論理化[#「論理外のものの論理化」に傍点]として機能しなければならない。即ち論理は単に論理としての[#「論理としての」に傍点]論理ではなくて、非論理的な存在に関する論理でなくてはならぬ。之が矛盾[#「矛盾」に傍点]と呼ばれる特色をなす。こうした論理機能を自覚したものが弁証法的論理[#「弁証法的論理」に傍点]である。そして弁証法的論理は、今述べた処で判るように、常に唯物論的なものでなくてはならなく出来ているのである(但し弁証法は何も論理[#「論理」に傍点]に限らない、元来夫は存在[#「存在」に傍点]の運動法則だということを注意しておこう)。
 之に反して観念論的存在論によれば、存在とは観念ということである。だからこの場合の論理は、観念に就いての観念の把捉形式の外ではない。論理は論理・観念の自己同一性[#「自己同一性」に傍点]にさえ立脚すれば好い(同一律と矛盾律)。そうした論理が形式的論理[#「形式的論理」に傍点]なのである。――唯物論は弁証法的論理を、観念論は形式的論理を、決定する。
 観想的世界観―観念論的存在論―形式論理学。及び実践的世界観―唯物論的存在論―弁証法的論理学。まずこの二群の公式を以上のように導来しておこう。

 さてこの二
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