Qの公式は哲学イデオロギーの[#傍点]歴史的発生の順序と構造[#傍点終わり]とを云い表わす。そして之が今のブルジョア哲学[#「ブルジョア哲学」に傍点]とプロレタリア哲学[#「プロレタリア哲学」に傍点]とを区別する組織的な測定器であることを注意すべきだ。でこの公式は哲学というイデオロギーの[#傍点]歴史的社会的存在に関する階級的制約[#傍点終わり]を云い現わすものなのである。
 だが一般にイデオロギーの階級性[#「階級性」に傍点]――それが特に微細に具体化されると党派性[#「党派性」に傍点]ともなるが――は決して、イデオロギーの今云ったような歴史的社会的存在に関する階級的制約に尽きるのではない。と云うのは、どのイデオロギーが真理[#「真理」に傍点]であってどのイデオロギーが虚偽[#「虚偽」に傍点]であるかが、イデオロギーの何よりも重大な階級性[#「階級性」に傍点]の内容だからである。
 処でブルジョア哲学とプロレタリア哲学と、いずれが科学的に真理であるか、これも亦今の公式によって、終局的に解答されることが出来ねばならぬ。それは形式的論理学と(唯物)弁証法的論理学とを、その論理としての資格に於て対比すれば出て来ることである。――一体形式的論理学は存在をその運動の現勢に於て捉えることが出来ない、それは存在を形式的な自己同一性に於てしか捉えることが出来ない、之に反して(唯物)弁証法的論理学は存在を運動のままの姿に於て捉えることが出来また捉えねばならぬ(蓋し弁証法に於ける矛盾とは、運動するものを運動のまま捉えようとする場合を、形式論理の範疇で批評したものに外ならない)。所で実際存在は、少くとも運動し得る[#「運動し得る」に傍点]ものでなければなるまい。――だが弁証法的論理学は決して形式論理学と互角に相反撥するのではない、すでにそれは形式論理学を自分のモメントとして、一つの特殊な極限の場合として、含んでいる。存在はその静止[#「静止」に傍点]の状態に於てのみ形式論理学の範疇に忠実なのである。で形式論理学は弁証法的論理学の一つのセクションに過ぎない。一体何れが論理として役に立ち又普遍性を持っているかは、之で判るだろう。
 夫々の世界観や夫々の存在論は、銘々他の世界観や存在論から独立であることが出来る、いずれが正しくいずれが不当であるかなどという比較を、拒もうとすれば拒むことは出来
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