A世界観自身が歴史的に推移又は発達する、ギリシア的世界観と一般に呼ばれるものも実践的世界観と観想的世界観との結合の様々な諸相を歴史的に展開して見せたというのが事実である。実践的世界観と観想的世界観とは、世界観に於けるモメント[#「モメント」に傍点]又は世界観の性格[#「性格」に傍点]を云い表わす、必ずしも歴史的に与えられた或る一つの世界観そのものの名ではない。
実践的世界観と云ったが、古来どれ程観念的な世界観であっても或る意味に於て実践的でなかったものはない、却って多くの観想的世界観は、それが観想的であればこそ或る意味の実践性[#「或る意味の実践性」に傍点]を主張する。原始仏教や儒教の「実践」哲学がそれである*。之に反して実践的世界観は、実践的であり得るが為めに却って一見観想的にさえ見えることがあるだろう。純粋自然科学の発達――そこから人間の技術が発達して来た――はそう云う世界観の齎物なのである。で、実践的世界観とは、云わば道徳的「実践」などを重んじる世界観のことでは必ずしもない、それはあくまで、科学的「実証」を重んじる世界観であったことを注意しておこう。
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* ソクラテスはギリシア哲学(それは元来自然哲学であった)の内にその「実践」哲学を導き入れた。処がプラトンに来れば明らかになる通り、このギリシア人にとって最も秀でた実践は正に「観照」なのである。――「実践」が如何に非実践的であり得るかが之でも判ろう。
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さてそうすると、実践的世界観から発生する又は夫が根柢に横たわっている哲学は、当然実証性[#「実証性」に傍点]を有った哲学――但し無論かの「実証哲学」のことではない――、即ち実証科学と連帯を有った哲学、であらざるを得ない、ということになる。
実践的世界観から裏づけられた哲学は、まず第一に唯物論的存在論[#「唯物論的存在論」に傍点]である。之に反して観想的世界観に裏づけられた哲学は第一に、観念論的存在論[#「観念論的存在論」に傍点]となる。蓋し一般に存在論[#「存在論」に傍点]――存在・実在の理論――は哲学体系[#「哲学体系」に傍点]の第一段[#「第一段」に傍点]だと考えられる(第二段に就いては後を見よ)。
ギリシア哲学が学的な――単なる世界観ではない処の――哲学として始まったのはタレスから
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