ゥら2字下げ、折り返して3字下げ]
* この点に就いては拙著『科学方法論』(岩波書店刊行)【前出】参照。
[#ここで字下げ終わり]
このことから批判主義に於ける「方法」の概念に根本的な欠陥を結果する。方法は科学的認識[#「認識」に傍点]という主観過程の外へ出ることが出来ない、そしてそういう科学的認識が即ち科学自身だというのだから、科学自身も亦結局一つの主観過程に還元されて了う。処が実は、科学とは、抑々批判主義自身の認識目的から云っても、一つの客観的な――歴史的社会的な――文化現象ではなかったか。で、そうすると今云ったような「方法」――科学=科学的認識の――は、少くとも科学という客観物の方法としては、不充分であらざるを得なくなる。
果して所謂批判主義によれば、科学の方法は、科学の歴史的進歩の過程[#「歴史的進歩の過程」に傍点]と絶縁された処の、単なる[#傍点]科学的概念構成の基本構造[#傍点終わり]としてしか理解されない。処が実際には、科学を――無論その科学的概念構成を通してであるが――歴史的に進歩させることこそ、方法――科学研究法――の元来の面目ではなかったか。方法の概念は科学的概念構成の基本構造という云わば静態を通って、科学の歴史的進歩の動力として働くという規定にまで拡大されるのでなければ充分でない。
だから例えば、数学は凡て形式論理[#「形式論理」に傍点]による概念構成を基本構造としているから、数学の方法は形式論理のものだなどと結論することは、方法という概念を科学の基本構造という静態としてしか理解しないことであって、実際には、数学の発展は歴史的な弁証法過程をその背後に持っているのである。例えば代数的な量概念は、之によって微積分的な量概念にまで進歩出来たのである。科学の静態的な基本構造と云っていたものは、実はこうした弁証法的――歴史的――発展の結果である一断面に外ならない。数学の方法を数学のこの歴史的進歩という根柢にまで具体化するならば、もはや数学の「方法」は単に形式論理のものだなどと云って片づけることは出来ない*。
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
* 数学や又「方法」の上で数学の支配下に立つ自然科学に、イデオロギー性=階級性があるかないかという問題、之はわが国に於ても暫らく前可なり大きな反響を呼び起こした問題であったが、この問題も今の点から原理
前へ
次へ
全189ページ中53ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング